不意に、右側に影がさした。
顔を上げると、リリーがじとっとした目でを見下ろしている。
「……とうとう先生にガツンと言われたんだ?」
「そんなんじゃないけど」
どちらかといえば、噛み付いたのはのほうだったが、話がややっこしくなるので口には出さない。
「改心した……とは思えないから、単なる気まぐれ?」
「酷い言われよう。何でもいいけどね」
「言われるだけのこと、してるでしょう」
棘のある言葉を吐きながらリリーはの隣の席に収まる。
2人は綺麗に仲直りをしたわけではない。わだかまりは残っている。もっと言えば、付き合えば付き合うほど、お互いの価値観の違いや優先順位の違いが浮き彫りになり、苛立つことが多くなっていく。それでも。
──傍にいてくれると、落ち着く。
隣が空白だと寂しい。
もリリーもそう感じていた。
「今日までのノートは?」
「リーマスに借りてた」
「じゃあ、授業にはついていけるのね」
「問題なく」
お互い目も合わせずボソボソとしたやり取りだが、まるであらかじめ決められていたセリフのように会話が続く。
最後に、リリーが意地悪く言った。
「泣きついてくるのを楽しみにしてたのに。残念」
はリリーを見た。彼女は片方の口角を上げ、いたずらっぽく緑の瞳を煌かせていた。
は鼻で笑うと、似たようにニヤリとする。彼女のほうが幾分悪人面だが。
そしてこれはちょっとした悪ふざけの合図だ。
「誰に向かって言ってんの? たとえ何にもやってなかったとしても、あっという間に追いつくに決まってるでしょ」
2人は同時に吹き出した。
数日後、グリフィンドールのクィディッチチームは正選手と補欠の選抜を行った。
今いる正選手は全員競技場に集まっている。
そして、キャプテンのエイハブ・ナッシュの前には、ずらりと立候補者が……。
「見事だね」
「私、ああいうふうにはなりたくないなぁ」
がもらした呆れの呟きに、シーカーのダリル・タッカーが苦笑して答えた。
シリウスがチェイサーに加わったことを聞いたグリフィンドールの女子達が勢ぞろいと言ってもいいくらいに集まっていた。
しかし、たとえ動機がシリウス目当てでも、彼とチームメイトとして真剣にプレーしたいと言うなら、誰も何も言わないだろう。ところが、彼女達の大半がそうではないことは一目瞭然だった。今も彼女達はシリウスの目を気にして、身だしなみを整えることに余念がない。髪を梳いたり目の下のくすみを気にしたり爪の輝き具合を確かめるのに一生懸命だったり。さすがに他寮の生徒はいないようだが。
「何しに来たんだ、あいつらは」
ふだん、どんなにエイハブが無理を言っても文句の一つも言わないビーターのデューイ・グルーバーが、珍しく不快そうに眉間を険しくさせてこぼした。
「見た感じ、あの人とあの人と、あそこの数人は本気でクィディッチをやりたい人に見えるね」
ヒョイと顔を出して言ったのはジェームズ。
は呑気な彼を冷ややかに見ながら言った。
「あのミーハーの中にはアンタ目当てもいるみたいだけど?」
「まさか! 僕はダメだよ。リリーという心に決めた人がいるんだから!」
「知るか。あの人達には関係ないんでしょ。だから、あまりこっちに来るな。あっちでシリウスと一緒に……」
「人を売ろうとするなよ、オイ」
他人の視線なんか気にしません、という態度で日常を過ごすシリウスも、この場の熱すぎる視線にさらされ続けるのは苦痛だったようだ。とジェームズに隠れるようにして混ざってきた。
女子達の視線が一気に向けられた。ただの視線ではない。おっかない視線だ。特にとダリルに向けられたものには確実に険が入っていた。
、ダリル、デューイは逃げ出そうとするのだが、ジェームズとシリウスは3人の腕をがっちり掴んで離さない。
「なァ……俺達、チームメイトだよなァ?」
地の底から何か不気味なものを背負って這い出てきたようなシリウスの声に、達3人は一斉に震え上がり、おとなしく頷くことしかできなかった。
今ここで見捨てたら絶対に呪われる!
口には出さないが、3人は同じ危機を抱いていた。
そんなやり取りはあったものの、最終的に選ばれたのはジェームズが最初に示した人達だった。その中には女子もいて、やはりシリウスとチームメイトでいられることに多少興奮気味ではあったが、チームに貢献したい気持ちとクィディッチに対する興味は本物であったため、今後の心配はなさそうである。
正キーパーも決まり、補欠の選手達ともお互いに自己紹介をすませると、エイハブは最初の練習日をみんなに告げた。
「本当は毎日練習したいんだけど、他の寮もあるからね。朝錬も含めて週に4、5回できたらいいと思ってる。体調管理を怠らないように。それじゃ、今日は解散!」
エイハブがそう言って締めた。
ジェームズ、シリウス、は自然にかたまって寮への廊下を歩いた。
「今日は賑やかだったねぇ!」
「ジェームズ……その話はやめてくれ」
渋いものを口に突っ込まれたような顔になるシリウス。
思わず笑いをこぼしたを、シリウスは目ざとく見つけて軽く睨んだ。
ジェームズはシリウスの機嫌などお構いなしに続ける。
「まあ聞きなって。シリウスはさ、そうやって嫌がるけど凄いことなんだよ。どんな理由であれキミを応援する人があれだけいるってわけだ。去年の試合でそれは実証済みだけどさ」
「……いったい何が言いたいんだ?」
にもジェームズの言いたいことはさっぱりわからなかった。
ジェームズはいつもの笑顔の中に、不意に真剣なものを混ぜて言った。
「応援してくれる人を、大切にしなきゃダメだよって話」
シリウスは気まずそうにジェームズから視線をそらしたが、はポカンとしてジェームズを見ていた。
彼が言ったことは、とても当たり前のことだった。当たり前すぎて、忘れてしまうほどの。
人の迷惑など顧みない行動ばかりしているその口から、こんなセリフが飛び出してくるなど思いもしなかった。
「その点、僕は大丈夫。リリーの熱い視線をいつも意識して大事にしているからねっ」
とシリウスは同時にこけた。
ジェームズは「これからのクィディッチシーズン、ますます熱くなっていくかな。いや〜まいっちゃうなあ」などと浮かれたことを垂れ流しながら先に歩いていく。
とシリウスは何となく顔を見合わせると、乾いた笑みを浮かべあった。
途中まではいい話だったんだけど……と、とても残念な気持ちだった。
その日、は呪文学のレポートを提出期限ギリギリでフリットウィックに届けた後、寮への通路を近道で帰ろうと、少しばかりひと気のない廊下に出ていた。
来年のO.W.L試験対策のために今学年の授業はレベルが高くなり、それに伴って宿題の量も去年より格段に増えていた。
さらには取れる限りの教科を取っていた上、クィディッチの練習もあり、文字通り目の回るような忙しさになっていた。そして彼女には、個人的に研究をしているものが2つある。
自然、睡眠時間が削られるわけだが、今のところの健康に問題はない。もともと体力はあるほうだ。自身、大丈夫と自信を持っている。
そんなわけで、足取りも軽やかに歩いていたわけだったが、突然響いた悲鳴にビクッとして飛び上がった。
あまり利用者のいないこの廊下で、こんな切羽詰ったような悲鳴が上がるのは、度胸のかたまりのようなでもびっくりする。何より女子の声だ。穏やかでないことこの上ない。
面倒事は極力さけたいだが、ここで無視したせいで後日悲惨な事件がダンブルドアの口から聞かされたのでは居心地が悪すぎるだろう。
は一つため息をつくと、様子を見るために声がしたほうに忍び足で近づいていった。
教室沿いに進みながら、中の気配を探る。それは、すぐに見つかった。がいたところから近かったからだ。
は息を殺し、壁に耳をつけて声でも漏れてこないかと集中した。
しばらくは何も聞こえなかったが、やがて椅子か机を倒すような激しい音が聞こえてきた。
──ものすごくマズイことになってる? 暴力沙汰とか?
の眉間に皺が寄る。
いじめの現場か何かに遭遇してしまったのかと思うと、気が重い。
しかし、は気持ちを切り替えると杖を握り締めて力いっぱいドアを開けた。
バーン! と、ドアを開け放った音と共に教室内に踏み込んだが見たものは、想像していた悲惨な光景ではなく、別の意味で衝撃的なものだった。
背景効果としては暗闇に走る稲妻がいいだろう。
それくらいの衝撃だった。
いつも整然と並べられている机はあちこちに位置を変え、一部は倒されている。その倒された机や椅子に囲まれたところにいたのは。
「シリウス……アンタ何やって……」
女子生徒を押し倒しているシリウスがいた。女子の制服の胸元はかなり露になり、乱れている。ブラウスのボタンが引きちぎられたような跡も見えた。
言葉を発したことでの脳みそは動き出す。それはすぐにフル回転を始めた。
これはいったいどういうことなのか。
の目はシリウスと女子生徒から外れ、教室全体を見回した。
「! 何を想像してるのか知らねぇが、ヘンなことじゃねぇからな!」
「ひ、ひどいっ……」
シリウスの必死な訴えに、押し倒された女子のか細く泣くような声が続いた。
再び2人に視線を戻したは、次の瞬間、ニンマリと目を三日月のように細めて笑んだ。
シリウスにとってはとても嫌な笑顔だった。
「やあ、ごめんね。お楽しみのとこ悪かった! 邪魔者は退散するから。それじゃ」
「待てぇー!」
「行かないでー!」
一歩退いたに、2人が引き止める声を上げる。
「お楽しみじゃねぇっての! 人の話を聞け!」
「助けてよっ、見捨てないでっ」
「何を図々しいこと言ってんだお前はっ」
「キャッ」
シリウスの怒鳴り声に女子は怯えた。
笑顔を引っ込めたは、どこか退屈そうに杖で肩を叩いてそれを眺めている。
その時、遠くからバタバタと複数人の足音が響いてきた。
そちらを見たとたんは「あーあ」と苦笑する。
どうやって聞きつけたのか、血相を変えたマクゴナガルがローブの裾を翻しながらやって来ている。彼女の後ろには2人の女子。中にいる女子の友人だろう。
マクゴナガルはを押し退けて教室内の様子を目にした瞬間、の脳天を揺さぶるような驚きの声をあげた。
「まあっ! ブラック! あなたは何をしているのですか! 何ということを……!」
「誤解ですっ。俺は何も──」
「せ、先生……」
ここに来てやっと体勢を戻したシリウス。
ノロノロと起き上がった女子は、マクゴナガルを見て安心したのかぽろぽろと涙をこぼし始めた。
「エレイン!」
「大丈夫!?」
ついてきていた2人の女子が被害者らしいエレインに駆け寄り、乱れた髪を撫でたり手をさすったりして慰めていた。
シリウスは愕然としてその様子を見ている。
「詳しい話を聞かせてもらいますよ。全員、ついてきなさい」
いつもの冷静さを取り戻したマクゴナガルが、硬い声で告げた。
「え、私も?」
「当然です。第一発見者はあなたでしょう、」
「エー」
「さ、行きますよ」
の抗議などそよ風のように流し、さっさと歩き出すマクゴナガル。
やっぱり関わるんじゃなかったか、とは後悔した。
入口でグズグズしているの脇を、3人の女子が通り過ぎていく。
一人、室内に残されたシリウスは、青い顔色で動かなかった。
はゆっくりとシリウスに近づき、数歩分の距離をあけたところで足を止める。
「行こう。ここにいても仕方ないよ」
「……俺は、何もしてない」
「うん。わかってるから」
「本当に何もしてないんだ!」
「だから、わかってるって」
変わらない、落ち着いた声のの反応に、ハッと顔を上げるシリウス。
ようやく自分を見たことに満足したようには自信ありげに微笑んだ。
「私もアンタは何もしてないと思うよ。だから、マクゴナガルにそれをちゃんと言わないと。このままだと犯罪者扱いだよ」
シリウスは慌てて立ち上がると、の手を引っ張って駆け出したのだった。
マクゴナガルの事務室に、生徒5人とこの部屋の主が応接用のテーブルを挟んで向き合っていた。
エレイン達3人とシリウスとの2人の間には、微妙な隙間ができているのは仕方ないだろう。そもそも、シリウスとエレインが端に位置したのは自然な成り行きだった。
マクゴナガルは生徒と自分に紅茶とジンジャークッキーを出したが、手をつけているのはだけだった。
「それでは、話を聞かせてもらいましょうか。ガードナーからどうぞ」
マクゴナガルに目を向けられたエレインは、最初、シリウスを気にしてチラチラと盗み見ていたが、やがて意を決したのかポツリポツリと話し始めた。
「シリウスに呼び出されて、あの教室に行ったんです」
「嘘だ! 呼んだのはそっちだろ」
「ブラック、黙ってなさい」
マクゴナガルにピシャッと冷たく咎められ、シリウスは舌打ちしつつも口を閉じた。
深呼吸を一つした後、エレインは再び話し出す。
「そうしたら、誰から聞いたのか……恥ずかしい話なんですが、私がシリウスのことを慕っていることが彼の耳に入ったみたいで、それで……好きならいいだろって……」
「言ってねぇだろ、そんなこと! デタラメばっか言ってんじゃねぇよ!」
「ブラック! ……わかりました。話は以上ですね?」
再び割り込んだシリウスを黙らせたマクゴナガルは、静かな声でエレインに尋ねると、彼女は小さく頷いてうつむいた。
それから、マクゴナガルはイライラしっぱなしのシリウスに視線を移し、今度は彼の話を聞く姿勢をとる。
「さて、あなたの番ですよブラック。お話しなさい」
「さっきから言ってるように、俺は呼び出してもいないし乱暴なこともしていない。呼び出されたのは俺のほうだ」
「それなら、あれはどういう事情だったのです?」
あれ、とはシリウスがエレインを押し倒していたことを指している。
シリウスは忌々しそうに貧乏揺すりをしながら答えた。
「あいつは俺に純血主義になれ、みたいなことを言ったんだ。俺は断った。そしたら、血を裏切ると後悔することになるとか何とか言って、自分の服を自分で裂いて俺の腕を引っ張って自分から後ろに倒れたんだ。本当だ」
「私、そんなことしてないわっ。私のこと、嫌いなら嫌いってはっきり言ってくれればいいのに! そうしたら、諦めるよう、努力したのに。あなたの迷惑にはなりたくないから、忘れる努力くらい、したのに……」
ギュッと拳を握り締めて声を震わせるエレイン。両脇の友人達がキッとシリウスを睨んだ。
しかしシリウスも負けじと睨み返す。
マクゴナガルは両者をそのままに、に目を向けた。
「では最後に、第一発見者の。あなたが見たことを話してください」
全員の視線がに集まった。彼女の証言しだいでどちらが嘘をついているか明らかになるだろうからだ。
「悲鳴を聞いた教室内を見た時、机や椅子はあのように乱れ、シリウスはガードナーを押し倒した格好でいました」
シリウスはみるみる顔を青くし、エレイン達はすがるような顔をし、マクゴナガルは無表情だった。
「それから私は一度、教室内を見回しました。まあ、特に異常はありませんでしたが。そしてまた2人を見た時に気づいたことがあるんです」
は横で切羽詰ったような表情でいるシリウスを見やると、彼だけにわかるように、暗金色の瞳に笑みを乗せる。
「人を襲うつもりで押し倒した時……えぇと、殺すつもりでも性的な意味でもですが、私なら相手が反撃してこないように両手を封じます。つまり、相手の両手を掴んで押し倒すということです。それなのに、シリウスの両手は何も掴まずに床に着き、彼自身の体を支えているだけでした。また、ガードナーの手はシリウスのローブの胸元を掴んでいました。無理矢理押し倒されたにしては不自然だと思いました」
話の途中からシリウスの顔色はどんどん良くなっていき、逆にエレインは青ざめていっていた。マクゴナガルは相変わらず無表情だ。
話せる全員の話をすべて聞き終えたマクゴナガルは、しばらく目を閉じて黙考していた。
にはどうってことのない沈黙だったが、シリウスとエレインには息苦しい時間だっただろう。
プレッシャーに負けたのか、エレインが小さくしゃくりあげ始めた。
それが数回続いた後、やっとマクゴナガルが目を開けた。
「今すぐにどうこうはしません。沙汰は追ってお話します。今日はもう帰りなさい。それと、この件は他言無用とします。それがお互いのためです。いいですね」
グリフィンドール寮への帰り道、シリウスはとてもご機嫌だった。
「まさかあんな証言してくれるなんてなぁ! ありがとうな、!」
「まだ結論が出されてないんだから、喜ぶのは早いよ。それにしても、ハッフルパフにも過激な人がいたんだね」
エレインの黒と黄色の縞模様のネクタイを思い出して言う。
シリウスもため息をついた。
「純血にこだわって、何があるっていうんだか……」
家族との確執を抱えるシリウスの呟きは重かった。
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