隣でそれを聞きとめたリリーが訝しげな視線を向ける。
は気持ちを落ち着かせるように目を閉じると、ひとつ、息を吐き出してから目を開けてリリーに笑いかけた。
「何でもないよ。さ、食べよう」
そう言ってリリーの前のゴブレットにオレンジジュースを注ぐを、リリーは呆れ顔で眺めていた。
「ごまかさなくてもわかってるわよ。午後の防衛術のことでしょ。言っておくけど、さぼろうとしても無駄よ。首に縄をかけてでも連れていくからね」
「……さ、さぼったりなんかしないよ」
「ちゃんと私の目を見て言ってくれる?」
は目をそらしたまま無言を返す。
その頭の中では、いかにしてリリーを出し抜くかをあれこれと考えていた。
もちろん、そんな考えなどリリーにはお見通しで、トイレにもくっついて行ってやる、と息巻いていたのだった。
そうして迎えた午後の授業──闇の魔術に対する防衛術。
教室の後ろ側のドア寄りの席に、リリーとは座っていた。
リリーはどこかすまし顔で、は不貞腐れて。
結局はリリーの目をごまかすことができなかったのだ。本当にスッポンのように離れなかったのだから。恐ろしい執念だとは内心おののいた。
そしてベルが鳴ると同時に見るのも嫌な担当教師が教室に入ってきた。バートルミー・レドナップである。五十がらみの明るい雰囲気の男だ。
しかしは、騙されるものかとすぐに視線を落とした。
教卓につくなりバートルミーは生徒達に教科書をしまい、杖だけを持って校庭に出るように言った。
「今日は天気もいい。外で思い切り魔法を使おう」
明るい声だ。
今までが会ってきた闇祓い達とは正反対といってもいい。彼らはいつも暗い瞳で蔑むように達を見てきた。
『普通の人間の魔法使い』を前にした闇祓いは、こんなもんなんだろうか。
そう思うと切なくなってくる。
「良さそうな先生じゃない」
浮かない顔のを元気付けたいのだろう。リリーが明るく言ったが、はそんな気分にはなれなかった。
曖昧な笑みを浮かべると、リリーは困ったように眉を八の字にした。
それきり、2人は黙ってバートルミーの率いるクラスの列の後ろのほうをついて行った。
芝生が陽射しにやわらかく反射している校庭でバートルミーが行ったことは、魔法使いの決闘の模擬戦だった。
先生が適当に2人組みに分けて、その組に充分なスペースを与えていく。生徒達は広い校庭を存分に使って散らばった。
「これまで習った魔法をしっかり思い出せ!」
先生のその言葉に、いきなり過激な模擬戦になりそうだとは思った。てっきり武装解除呪文のみ許可とか言い出すと思っていたのだ。
「もう4年生だからな。実戦に近いものをやってもいいだろう」
の疑問に答えるようなタイミングでバートルミーが言う。
言いながら近づいてきた彼は、並んで立つとリリーを見た後、ふと周囲を見回して、
「ブラック!」
と、シリウスを呼んだ。
「おまえとだ。エヴァンズはあっちへ」
そう言い残してリリーを他のグリフィンドール生のところへ連れていってしまうバートルミー。
は呼び寄せられたシリウスをしかめっ面で迎え、シリウスはニヤッとしての前に立った。
変えてもらおう、とがわがままを言いに行こうとした時、ふと視界の隅に大きく手を振っているジェームズが入った。
手を振りながらジェームズは口パクで何かを訴えている。
──チャンスだ!
「……なるほど」
は先日の夜中の会話を思い出した。
手っ取り早くシリウスをクィディッチチームに引き入れる方法。
確かに、これは思わぬ機会だ。あの時困っていたのは決闘の場所だったが、こんな形でそれが提供されたのだ。乗じる他はないだろう。
は一つ頷くと、シリウスを見据えてニヤリとして杖を抜く。
「いいカモが来たとか思ってんでしょ。フフン、私だっていつまでも下手くそなままじゃないよ」
「へえ〜、それはそれは。ぜひ見せてもらわないとな」
急にやる気を見せたに動じることなく、シリウスは挑戦的な目で返した。
「日頃のチキンの礼をさせてもらうぜ」
「アンタがぐずぐず食ってるからなくなるんだよ」
「今日からは遠慮しながら食うことになるかもな」
「その余裕こいた顔が泣きべそに変わる瞬間が楽しみだねえ」
無駄に挑発しあって遊ぶシリウスと。しかし、どちらも手を抜くつもりはない。
やがて組み分けを終えたバートルミーが声を響かせて言った。
「じゃあ始めるぞー! 構えて! ──1、2、3!」
直後、あちらこちらから一斉に魔法の光線が空を飛んだ。同時に生徒達の悲鳴やら何やらも。
シリウスとはというと、やはり先手はシリウスだった。一瞬後にの魔法も飛ぶ。シリウスは鼻いぼの呪い、は一番馴染んだ武装解除だ。
「いきなり酷い呪い……」
光線をひょいとかわしたは眉を寄せた。
シリウスはニヤニヤしている。
そんなシリウスに、はあの条件を突きつけた。
「シリウス、この勝負に私が勝ったらクィディッチチームのチェイサーになってもらうよ!」
「何だそれ、何を勝手に……!」
「チームみんなの意見だよ。もしシリウスが勝ったら、アンタの好きにすればいい。簡単でしょ?」
数秒の後、シリウスは不敵な顔つきでフンと鼻を鳴らした。
勝負を受ける気になったようだ。
「嘘付け。勝負で決めようなんて言い出してんのはお前とジェームズだろ。ま、でもいいさ。受けて立ってやる。……ジェームズが相手だったら厄介だったけど」
シリウスの鋭い洞察後の発言にはムッとした。挑発だとわかっていても、そういう言い方をされて黙っている性格ではない。売られた喧嘩はたいてい買うのだ。
「本気で泣きべそかかせてやる」
「やれるもんならやってみろっ」
言い終わるや否や、武装解除呪文を放ってくるシリウス。
は身をかがめてそれを回避し、その時力を込めた足で一気に駆け出す。ついでにあいている手で引きちぎった芝生を蜂に変身させてシリウスを襲わせた。
当然、その程度でうろたえるようなシリウスではなく、あっさり魔法を解除すると、反撃とばかりに金縛り呪文を唱えた。
はそれをプロテゴで跳ね返す。
「いつの間にそんな呪文を……」
舌打ちしつつ妨害呪文を繰り出すシリウス。
ギリギリでかわす。
呪文をかわしながらは右へ左へと大きく位置を変えながらシリウスとの距離を縮めていた。
そして、訪れたチャンス。
定まらない標的にシリウスが苛立ち始めている。だからといって、一瞬でも気を抜けばたちまちのうちに杖を吹き飛ばされるか、別の呪文で降参させられるだろう。
妨害呪文を大きく横に飛んで、シリウスの杖腕の方向に一回転して避けたは、その時に拾った小石を彼が杖を持つ手に投げた。
痛みに顔をしかめたシリウスに、は膝を着いたまま思い切り呪文を唱えた。
「アクシオ、シリウス!」
「……っ!」
集中力の途切れを、シリウスは正確に突かれてしまった。よろけた体は一気にに引き寄せられていく。
ぶつかる直前、は半身を引いてそれをかわし、シリウスのローブを掴むとうつ伏せになるように地面に押し付けた。杖腕を封じるのは忘れない。
シリウスの背にまたがり、首筋に杖を突きつけたは得意満面で勝利を宣言したのだった。
──が。
パコンッ、と小気味良い音を立てての後頭部が叩かれた。
「イタッ。ちょっと誰!? ……レドナップ」
「レドナップ『先生』だ」
の後ろに立っていたのはバートルミーだった。彼女は訂正されたことを無視して不満顔で問う。
「何か?」
「何か、じゃないだろ。だれが戦闘をしろと言った。私は決闘をやってみろと言ったんだが?」
「どっちもたいして変わんないでしょ」
「いいや、違うな。それに、この教科の担当は俺だ。俺の方針に従わないなら減点罰則だな」
例えばこれがマクゴナガルや他の先生の言ったことなら、渋々ながらもは従っただろう。しかし今回の相手は、大嫌いな闇祓いだった人物だ。の反抗心はいつもの倍以上になっていた。
サングラス越しでも充分にわかる、すっと細めた目で嫌悪も顕わに見上げては言い放つ。
「あ、そう。好きにすれば?」
生意気な態度にバートルミーの眉がピクリと動く。先ほどの減点罰則発言は脅しだったが、どうやらそれではすまなくなりそうだ。
両者の間に生まれた緊張感の下敷きになっていたシリウスが、関係ない自分を巻き込むなとばかりに声を上げた。
「、いい加減にどけ。いつまで乗ってるつもりだ」
ハッとしたは慌ててシリウスの背から下り、ごめんと謝る。
「でも、これでチェイサーを引き受けてくれるよね?」
「……約束だからな」
「やった! ありがとうシリウス。ジェームズに知らせなくちゃ」
バートルミーに言わせれば、2人の勝負は無効になるのだが、当の本人達にとっては有効だったようだ。
しかし、彼にとって問題はそこではない。
どさくさに紛れてこの場を立ち去ろうとしているの肩をがっちりと掴むと、
「こっちの話は終わってない。お前には魔法使いの決闘について根本から教えないといけないようだな」
と、凄味をきかせて言った。
は思い切り嫌そうに顔を歪めた。
そして、肩を掴むバートルミーの手を叩いて振りほどく。
直後に授業終了のチャイムが城から鳴り響いた。
身を翻し、走り出す。その背にバートルミーが大声をぶつけた。
「、後で事務室に来い!」
「やだよー! 授業ありがとうございましたーさようならー!」
ほとんど棒読みで叫びながら、はあっという間に城内へ行ってしまったのだった。
残されたシリウスに、バートルミーはため息をつきながら尋ねる。
「はいつもあんなふうなのか?」
「いや……もっとふつうだけど、俺にも何が何だか」
の態度に唖然としたままのシリウス。
バートルミーは腕組みして何やら考え込んだ。
グリフィンドール寮談話室でシリウス確保の知らせを受けたクィディッチチームの面々は、歓声を上げてジェームズとを褒め称えた。その横でシリウスが複雑な表情で立っている。
しかし諸手を上げて歓迎されて悪い気がするはずもなく、やがてそのしかめっ面にも見えそうな表情に淡い笑みを浮かべたのだった。
それから10日程が過ぎた。
はバートルミーから逃げ回っている。
というのも、初日以来授業をサボっているからだ。
がその気になればリリーの監視から逃れることは不可能ではない。おかげでリリーは完全に腹を立ててしまい、今では口を聞いてくれなくなってしまった。またしても絶交状態になった2人を周囲は気遣うように見守るが、積極的に仲裁しようという人はいなかった。誰だって面倒事には巻き込まれたくないのだ。
また、たとえ廊下でバートルミーに見つかっても、学校の地図を作ろうと隠し部屋を探し回っているに彼が敵うはずもなく。
はバートルミーにとって、すっかり頭痛の種になっていた。
そのせいか、あんな間抜けに捕まるものか、と油断していたのかもしれない。
ある日、はバートルミーと曲がり角で鉢合わせてしまった。
何てベタな、と後悔してももう遅い。
ギョッとして踵を返しかけた時にはすでにバートルミーの手がのローブの襟首を掴まえていた。
最後の手段だ、と大声で騒ぎ出す。
「ぎゃー! 放せ変態教師! 誰かーっ!」
「人聞きの悪いことを言うなっ。今日という今日は逃がさないぞ。どうして授業に出ないのか、じっくり聞かせてもらうからな! さあ、こっちに来い!」
バートルミーの力は予想以上に強く、また掴まれた場所も悪かった。はジタバタ暴れたが、バートルミーは力に任せてズルズルと引きずり自分の事務室へ向かう。
目撃した生徒達は、バートルミーの剣幕に圧されて誰ひとり近寄ってこなかった。
バートルミーの事務室に放り込まれたは、ソファに座らせられたがそっぽを向いたまま彼と目を合わせようもしない。
バートルミーはため息をつきながら、ローテーブルの上に紅茶とクッキーを用意する。
それはとてもおいしそうだったが、誰が元闇祓いの出したものに手をつけるか、とは見向きもしなかった。
バートルミーは怒りを通り越して困り果てていた。この生徒は何故ここまで自分を嫌うのか、と。
もとの職業柄、スリザリンの生徒にはあまり親しまれていないが、まさかグリフィンドールの生徒に嫌悪されるとは考えてもみなかったのだ。何かあっただろうか、と彼は記憶を漁った。
「なあ、俺とお前は初対面だよな?」
そっぽを向いたまま、は頷くだけで答える。
「じゃあ、俺の何がそんなに気に入らない? スリザリン生だって授業にはちゃんと出てるぞ」
は眉間に皺を寄せて目を伏せた。
何となく弱味を見せるようで嫌だというのもあった。
少しの間、バートルミーはからの返事を待ったが、何も返って来なさそうだと判断したのか、紅茶を一口飲むとため息混じりに漏らした。
「このまま欠席を続けると単位をやれんな。そうなると、落第だ。それでいいのか?」
落第、の一言はの心に確実に重石となった。
同時にバートルミーに対する失望も覚えた。
何だかんだ言っても最後には脅すのか、と。
そう思うとフツフツと怒りが込み上げてくるのだった。
剣呑な目付きでがバートルミーの顔を見ると、何故か彼はニカッと陽気な笑顔になる。
「やっと話しをする気になったか? まあそう睨むなって。それで、何が気に入らない?」
「言ってもどうしようもないから言わない」
「それじゃ何の解決にもならんだろう。決め付けないで言ってみろ」
しつこく促すバートルミーにうんざりして、それならばとは口を開いた。これで彼が機嫌を損ねてくれれば部屋を出る口実になると思ったのだ。
「アンタが元闇祓いだというのが気に入らない。私は闇祓いがこの世で一番嫌いだ。そんな人の授業には出たくない」
まっすぐに彼の目を見据えて言い、反応を待つ。
怒れ、怒るんだ、とは期待したが、バートルミーは怒るどころか困り顔で頭をかいた。
あー、とか、うー、とか低く呻いているのは本当に困っているからなのだろう。
意外な反応にの目は怪訝そうに細められる。
しばらくその状態が続き、いい加減ここから出て行きたいは、もういいだろうと立ち上がろうとした時、ようやくバートルミーが言葉を発した。
しかしそれは特に解決に繋がるものではなかった。
「うーん……それは困ったなあ」
「見ればわかる。だから、もう放っといて。じゃ、帰るから──」
「待てっ。待て待て待て。どうして闇祓いが嫌いなのか気になるが、今は聞かない。その代わり、こういうのはどうだ?」
テーブル越しに身を乗り出し、茶色の瞳をきらめかせるバートルミー。
「俺はもう闇祓いではないし魔法省からも退いている。だから、バートルミー・レドナップ個人として見てくれないか? 組織の一員ではなく……」
「組織の一員だった過去があるから、今こうしてここにいるんでしょ。無理」
冷めた表情でけんもほろろに言い捨てたに、さすがに心の広そうなバートルミーもムッとしたように眉を寄せた。これだけ生意気な態度をとられれば当然だろう。
バートルミーは肩を落としてソファに深く腰を沈めると、しばしの逡巡の後に言いにくそうに切り出した。彼は、話しをしながら漁っていた記憶に引っ掛かるものを見つけてしまった。
「──この教科の担当になる時にな、一通り生徒の経歴に目を通したんだ。それで問題のありそうな生徒を挙げておいた。その中にお前もいた。お前の姓を見て、もしやと思った。お前の両親の件に俺は関わってはいなかったけど、先輩が関係してたからおおまかな話は聞いてたんだ」
膝の上で組んだ手を睨むようにじっと見つめながら、重い声でバートルミーは話す。
は特に相槌もせずに聞いていた。
「戦闘の末夫妻は死亡、子供が行方不明になってそれっきりだって。その子供がお前なんだろ? 書類で見た父親によく似ている……。その戦闘の時、一緒にいたと聞いたけど、覚えてたんだな? だから初対面でも闇祓いだった俺が憎いんだろう?」
その通りだった。
けれど、それだけではない。
せっかく得た仲間から無理矢理引き離され、魔法界などという知らない世界で監視の対象に置かれ、隔離された時の恐ろしさをは忘れられない。
そして、そこで自分に良くしてくれた気の良いヤツを見殺しにされたことも。
重苦しい沈黙が流れた。
何も言わずに、冷め切った紅茶を見つめるに、バートルミーが静かに声をかける。
「なあ、そんなに嫌だったら授業には出なくていい。嫌々出ても身に付かないからな。その代わり、考えてほしい。お前は闇祓いの連中をずっとそうやって一括りにして憎んでいくのか? ──俺は、お前をヴァンパイアの血を引く、とまとめて考えることはしないぞ。そう考えるようになったのは退職してからだけどな。現場から離れて人間関係も多少変化して、自分の持っていた偏見にやっと気づいた。今は、彼らのことをもっと知りたいと思っているよ」
「それで、私を使って償いにしたいって? やめてよね、そういうの。やりたいんだったら隔離施設のやつらにでもやれば? アンタの償いの旅に付き合ってられるほど暇じゃないんだ。話は終わり? もう帰るよ。じゃあね、偽善者さん!」
痛烈な言葉を吐き捨てたは、立ち上がり際にティーカップに手を伸ばすと、冷めた紅茶を半分ほど一気に飲み込み、やや乱暴にそれを戻すと振り向きもせずにさっさと廊下に出た。
後ろ手にドアを閉めたは大きく息を吐き出すと、グリフィンドール寮へと足を向けた。
部屋に残されたバートルミーは、きつい言葉を投げつけられたにも関わらず、落ち着いた表情をしていた。
そして、が口をつけたカップを見て苦笑する。
尋常でない嫌われ方をされているのはわかったいたから、がカップに触れることはないだろうと思っていた。
けれど、最後の最後でそれに手を伸ばしたということは、少しくらいは期待しても良いということだろうか。
それから、最初の授業で見たシリウスとの決闘を思い出す。
「利発そうな子だとは思っていたが……いろいろと難しい子供だな」
呟きは、ゆったりとした吐息に紛れていった。
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