16.無言の約束

4年生編第16話  が眠っていられたのは、ほんの数分だった。
「まあ、あなた達! 何ですか、そのナリは!」
 どんなに強烈な睡魔もぶっ飛ばすキンキン声により、は心地よい眠りの世界から弾き出された。
 暴力的な覚醒により、ハッと顔を上げて最初に目に入ったのはマダム・ポンフリーの怒りの表情。どれくらいの怒りかというと……言葉では言い表せないほどのレベルだ。
 それから、自分がジェームズに背負われていることに気づき、慌てておりる。
「ごめん、ジェームズ」
「いや、いいよ。キミのおかげで助かったんだし」
「そういえば、怪我は──わっ」
 がジェームズに怪我はないか見ようとした時だ。
 怖くて視界から追い出したマダム・ポンフリーがの腕を乱暴に掴み、あいているベッドへ放り込んでカーテンを閉めた。
 閉められる直前のカーテンの隙間から、呆気にとられているジェームズとピーターの顔が見えた。
 ピーターに気づいた瞬間、はダンブルドアのことを思い出す。それから、シリウスとセブルスを。彼らはどうしているだろうか?
 だが、それらの疑問を押し退けるように、マダム・ポンフリーがの手に何かを押し付けてきた。
 今晩飲むはずだった血液パックだ。
「あ……すっかり忘れてた」
 思わず出た呟きに、マダム・ポンフリーから長いため息が吐かれる。
 はバツが悪そうに顔を歪めてパックの封を開け、口に含んだ。
「まあ、その感じなら大丈夫そうですね。昼間に摂取しておいたのが良かったのでしょう」
 その見解にも異存はない。
 飲み終わった頃には疲れが幾分か回復していた。
 そんな自分を忌まわしく思い……すぐにそれを頭から追い出す。考えても仕方のないことだから。
 そんなことよりも今は。
「さ、ついでですから治療しますよ」
「待って。その前に」
「これより優先する事項などありません!」
 ピシャッと言われ、その迫力には首をすくめ、おとなしく従うしかなかった。

 怪我は打ち身と掠り傷程度で、治療はすぐに終わった。
 マダム・ポンフリーがカーテンを開けると、安堵した顔のジェームズとピーターがいた。
「あなた達はすぐに校長室へ行きなさい。ダンブルドア校長がお待ちですから」
 の頭の中に渦巻くたくさんの質問を口にする前に、彼女達は医務室から追い出されてしまった。
 校長室への廊下を歩き始めたところで、やっとはまともに言葉を発することができた。
「ねぇ、ダンブルドアを呼んでくれた?」
「呼んだよ。僕に医務室にいるように言ってね」
「それで、城から出てきたところで僕が会った」
 ピーターの言葉をジェームズが引き継ぐ。
 はた、と首を傾げる
「私、見てないよ」
「いや、あの場にちゃんといたよ。キミ、眠る寸前で気づかなかったんだね」
 小さく笑うジェームズ。
 暴れ柳のうろからジェームズが引っ張り上げたと入れ違うように、ダンブルドアは中に下りて行ったらしい。
 屋敷の中で気を失っているリーマスを見て、彼はどう思っただろうか。
 あの時はも手加減なんてしている余裕はなかったから、もしかしたら怪我を負わせてしまったかもしれない。
 それを考えると、の気持ちは沈んでいった。
 その気配が伝わったのか、慰めるようにジェームズがの背を撫でた。
 校長室へ通じる二体のガーゴイル像の前に着くと、ピーターが「マーブルヌガーデラックス!」と合言葉を告げる。
 ピョン、と石像とは思えない身軽さでふさいでいた階段への入口を開けたガーゴイル像の間を通り抜け、どういう魔法がかかっているのかわからない動く階段に飛び乗る。
 いつの間にか、三人のおしゃべりはなくなっていた。
 今回のことで何を言われるのかと思うと、自然と口が重くなっていく。
 いつも陽気なジェームズでさえ、緊張しているようだ。
 けれど、階段が動きを止めることはなく、三人は校長室の前まで運ばれた。
 緊張した顔を見合わせた後、ジェームズが扉をノックすると、中からダンブルドアの「お入り」というやわらかい返事がきた。
 室内に入ると、ソファに座っているシリウスとセブルスの後ろ姿が見えた。
 幅のあるソファの端と端に座っている。
 その間に自分達が収まるのかと思い、出そうになったため息を飲み込む。同時に自分の座る位置も悟った。
 というわけで、ダンブルドアが幅を広げたソファに、達は重い空気を纏って腰掛ける。
 ダンブルドアは執務机に着いており、杖を一振りして達の前にあたたかい紅茶を出した。
 は右側のセブルスも左側のピーターも見ることができず、かと言ってダンブルドアを見つめる気にもなれず、棚の銀製の不思議な道具達に視線を一巡りさせた後、目の前の紅茶に視線を落とした。
 息苦しい沈黙に耐えられずに紅茶を一口飲んだ時、ダンブルドアが口を開いた。
「さて、事情の説明をしてくれるかの?」
 は目を上げず、もう一口紅茶を飲み、カップを戻す。
 そもそもの発端はシリウスとセブルスのようだ。
 2人が説明すればいい、と思った。
 先に言葉を発したのはシリウス。ひどく面倒くさそうな、苛立ったような口調でポツポツと話し始めた。
「そこの陰険ヤローがコソコソかぎ回ってるから、アドバイスしただけだ」
 何だかさっぱり意味のわからない説明だが、シリウス達とセブルスの仲の悪さやリーマスに関することを知っているには、これで充分だったしピーターの話とも一致している。
 シリウスとしては、リーマスのことをばらす気などなく、変身後のリーマスにセブルスが驚いて情けない姿で逃げ帰って来ればいい、という考えだったのだろうが、残念ながらタイミングがずれてしまったのだろう。
 きっと、リーマスの変身中を見てしまったのだ。
 ちらりとダンブルドアを見上げれば、困ったように口の端に苦笑を浮かべていた。
 ちなみに、右側からは凄まじい殺気と怒気が伝わってきて恐ろしくて見ることができない。鳥肌がたちそうだ。
 ところが、ダンブルドアはいつもの穏やかな表情でセブルスの話も促している。
 究極のマイペースだ、とは感心半分呆れ半分に思った。
 セブルスは、、ピーター、ジェームズを越えてシリウスを鋭く睨みつけると、やがて嫌味たっぷりに鼻を鳴らす。
「校長、どうやら学校に非常に危険な生き物が生徒のふりをして紛れ込んでいるようです。即刻退治するべきだと思います」
 憎悪を抑えた冷えた声と内容に、の心にずしりと錘が落ちた。
 この場で問題になっているのはリーマスのことなのだが、自分にも当てはまることだとわかっているからだ。現に今日は朝からとても危ない状態だった。
「ビビりすぎて幻でも見たんじゃねぇの? 弱虫クン」
 シリウスがせせら笑うと、セブルスの歯軋りがの耳に小さく届いた。
「あの場所を知っているということは、貴様があの生き物を匿っているということだな? 自分だけが勝手に危険にさらされるならまだしも、関係のない他の生徒をも危険にさらしていることにも気づかないとは……とんだ愚か者だ」
「ははは、闇の魔術に夢中になってるクズがどの口で言うんだか」
 ガタンッ、とソファを蹴立てて2人が同時に立ち上がる。
 座ったままの達の体が小さく跳ねた。
「2人とも、座りなさい」
 一触即発の空気にも関わらず、落ち着いた声で着席を促すダンブルドア。
 睨み合うシリウスとセブルスがゆっくりと座るのを待つ。
「だいたいのことはわかった……」
 ダンブルドアの目が一瞬ピーターで止まる。前もって話を聞いたからだろう。
 そのまま彼の視線は右側へと滑り、セブルスで停止した。
「セブルス……」
 やわらかく名を呼ばれた彼は、それだけでダンブルドアの意図を察し、これ以上ないくらいに表情を険しくさせる。
 全員の目がセブルスに向けられた。
 返答しだいではシリウスが激昂するだろう。
 そもそもシリウスが原因なのだが、そういうことにかまう性格ではない。
 ジェームズだってリーマスが追い出されるのは嫌だろうから、シリウスに加勢するかもしれない。もともとセブルスとは険悪の仲だ。
 ピーターは……わからないな、とは思った。
 彼はあまり攻撃的な性格ではないし。喧嘩にならなければ、それに越したことはないと思うかもしれない。
 では、自分はどうか?
 は自問して──答えが出なかった。
 気持ち的にはシリウスに味方したいのだが、自身も学籍を問われる立場になるかもしれないと思うと、どうしたらいいのか判断できなかったのだ。
 痛いほどの沈黙が、見つめられたセブルスによって破られる。
「見逃すことで、僕に何の得が……?」
 もっともな意見だ、とは観念にも似た思いを抱いた。
 セブルスから目をそらし、膝の上で組んだ手を見つめる。
 ダンブルドアがかすかに空気を震わせた。笑ったようだ。
「彼らに感謝されるじゃろうな。大きな恩を売ることができる」
「恩を感じるような謙虚さがあるとは思えませんが」
「なるほど。ところで、キミ自身はどうかね?」
 ダンブルドアに問われたセブルスは、数秒間、訝しげに眉をひそめた直後、何かに気づいたように小さく息を飲んだ。
 そして、恨みがましそうにダンブルドアを睨み上げる。
 まるで、気づきたくなかったことを気づかされたように。
 の視界の端で、セブルスの拳がきつく握り締められる様が映る。
 白くなった両拳からどれほどの悔しさかが窺い知れた。
 ダンブルドアの指摘した内容が何だったのか、にはわからない。
 それは、他のみんなも同様のようで。
 わかっているのは、ダンブルドアとセブルスだけ。
 視線をそらすことのないダンブルドアに、やがてセブルスは食いしばった歯の隙間から唸るように告げた。
「──僕は、何も見ていない。今晩も自室でいつものように過ごしていた……これでいいですか」
 ダンブルドアは、セブルスの悔しさを理解したようにかすかな笑みを見せて頷くと、ゆっくり休むようにと寮に戻るよう言った。
 怒りと屈辱、不満に震える拳を握り締めたまま立ち上がったセブルスは、ダンブルドアも達も見ることなく校長室を出て行った。
「何だあいつ?」
 乱暴に閉められた扉を訝しげに見つめるシリウスに、ダンブルドアは苦く笑う。
「彼は黙っていることでキミ達に恩を売ると同時に、自分にもキミ達に恩があることに気づいたのじゃよ。だから、手を引いた」
 首を傾げるシリウスに、今度は朗らかに笑うダンブルドア。
「正確には、ジェームズとにじゃな。キミ達が駆けつけなければセブルスは死んでいたか狼人間になっていたか……」
 そこまで言われて、ようやくにも合点がいった。
 恩も何も、あんな事態を招いたのはシリウスの軽率な発言のせいなのだから、あまり取り引きの材料にはなりそうもないのだが、生真面目な彼のことだ、言われたことを信じてのこのこ出て行った自身のうかつさを責めたのだろう。
「校長も悪い人ですね」
 事を丸く収めるために、わざわざそれを気づかせたダンブルドアに、は呆れた。
 セブルスの性格をよく知った上で言ったのは間違いない。
「これで双方助かったというわけじゃ。キミ達もこのことでこれ以上は事を荒立てないように」
 ダンブルドアの視線は主にシリウスに注がれていた。
 きれいだが威圧感のある青い目にじっと見つめられ、シリウスも仕方なく頷く。
 彼も馬鹿ではない。下手に突付いた時の最悪の事態がわからないほど、想像力は乏しくなかった。

 校長室を出て、就寝時間も過ぎた静かな廊下を4人で寮へと歩く。
 誰も口を開かず、どうにも居心地の悪い空気が達を包んでいる。
 は、時々ジェームズから物問いたげな視線が送られていることに気づいていたが、素知らぬふりをして、自分の足元を見つめながら足を動かした。
 セブルスが飲み込んだものの中には、きっとへの不審もあったはずだ。
 あの時はそんなことにかまっている場合ではなかったが、落ち着いて思い返したなら彼ならきっと違和感を覚えただろう。勘の良い人だから。
 ジェームズもあの場にいたから引っかかっていたが、そこにいなかったシリウスとピーターの前では何も言わなかった。
 安易に触れていいものではない──そんな気がしていた。
 リーマスの時の彼の絶望に染まった顔を、ジェームズは忘れていない。
 リーマスに感じていた、どこか一線引いたところや掴みきれない心には深い理由があった。
 同じような印象のも、きっとそうなのだろう。
 さらに言えば、リーマスはジェームズ達に自分の体質を知られて酷く混乱したが、結局は受け入れて許したが、もそうなるとは限らない。
 思い切りが良すぎるところがあるから、あっさり学校から去ってしまう可能性もあった。
 そんなことは、ジェームズは望んでいないのだ。
 彼は、あの時よりも思慮深くなり、そして少しだけ臆病になっていた。
 結局、グリフィンドール寮の談話室に入っても何も言うことができなかった。
 もうじき日付が変わろうとする談話室には、もう誰もいない……と、思ったら、暖炉の前にぽつんと見慣れた赤毛が見えた。
「リリー?」
 がそっと呼びかける。
 これだけ静かなのだから、達が入ってきたことに気づいているはずなのに、リリーは暖炉の小さな炎を見つめたまま何の反応も返さない。
「寝てんじゃねぇの?」
「そうかな……?」
 シリウスの言葉に首を傾げるピーター。
 うたたねしているにしても、ピンと伸びた背筋は不自然だ。
「リ……エヴァンズ、どうしたの?」
 名前で呼びかけて慌てて言い直したジェームズに、ようやくリリーは4人に顔を向けた。
 とても剣呑な瞳で。
 思わず一歩引いてしまう4人。
「いったい何してたの? は帰ってこないし、馬鹿達は慌てて飛び出したっきりだし」
「馬鹿達って僕達のこと……?」
「他に誰がいるの?」
 言葉を間違えたことに気づいたジェームズだったが、もう遅い。
 メデューサに睨まれたように彼はピシッと固まってしまった。
 こんなリリーはできれば見なかったことにしたいだが、ここで背を向ければ殺されそうな気がして、何とか気を落ち着かせてもらおうと、勇気を振り絞って一歩、二歩と近づく。
「あのね、ちょっとのっぴきならない緊急事態が発生してね……」
「ふぅん? ──で?」
「う、あ、えっと……ごめん、無理」
 氷のような視線に言葉が続かなかったは、とうとう顔をそらしてピーターに後を託した。
「えええええ!? ちょちょっ、まっ、ぼ、ぼぼぼぼ」
「わかったわかった」
 ピーターの慌てぶりが余程哀れだったのだろう。シリウスが肩を叩いて落ち着かせる。
 シリウスはため息を吐くと、ギュッと眉間にしわを寄せて突き放すように言った。
「お前に言うことなんか何もない。関係ねぇんだから早く寝ろよ」
 達がいっせいに青ざめる。
 リリーからの特大の雷を予想し、は身構えた。両手はすでに耳の傍だ。
 ……が。
 確かに怒鳴りつけようと大きく息を吸い込んだリリーだったが、そこで終わってしまった。
 萎れるように息を吐き出し、肩を落とす。
 諦めたように暗い表情で目を伏せると、何か小さく呟いた後、
「そうね、関係なかったわね。何やってたんだろう、私」
 と、4人に聞こえるように言い残して女子寮へのドアへ早足に向かった。
「待ってリリー……!」
 ドアの向こうに駆け込んだ彼女を慌てて追いかけるも、まだ男子の体のは階段に拒絶されて突っ伏した。つるつる滑る急な斜面になった元階段を、悔しそうに叩く。
 やれやれ、とため息を吐いて立ち上がり、ドアを閉めた。
「どうしたんだろ、いつもなら凄いのが来るのに」
「何か、ヘンなこと呟いてた」
 心配するようにドアを見つめるジェームズに、が先ほど耳にしたことを話す。彼女の人間より発達した聴覚だから聞き取れた呟きだ。
 不安そうな目を向けるジェームズに、は難しい顔で答える。
「マグル生まれだもんね……とか言ってた。どうしたんだろう。今までそんなふうに言ったりしなかったのに」
 自分の知らないところで酷いことを言われたのだろうかと、は心配顔を女子寮のドアに向けた。
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