変な姿勢で寝ていたとか毛布が首に絡まっていたとか、寝相に関するものが原因ではない。
苦しげに呻きながらベッド代わりのソファに半身を起こし、立ち上がろうとして──ふらついて倒れ込む。
風邪というわけでもない。
ふらふらと、今度こそ立ち上がったの口から低く怨嗟の唸りがもれる。
「ジェームズ……」
と。
はふらつく足を叱咤し、ソファやテーブルにぶつかりながら廊下へ出た。
そして壁を支えに、どうか誰にも会いませんようにと願いながら歩く。
どうか、早起きの生徒に出くわしませんように、と。
願いが通じたのか、はゴーストにさえ会うことなく、目的地である医務室へ着くことができた。
ノックをするとドアを壊しそうだったので、そのまま入る。
マダム・ポンフリーなら奥の事務室にいても気づくだろうけれど、今は気づかないでほしいとは思った。
しかし、仕事熱心で過保護なほどに生徒思いのマダム・ポンフリーは出てきてしまう。
「まあ、! どうしたのです真っ青な顔をして!」
盛大に驚いた後、彼女は今日が何の日か気づくと、サッと表情を厳しくさせて医療品棚へと向かった。
その間には勝手に荒くなる呼吸を無理矢理抑え込むように胸を押さえ、ベッドを目指す。
ベッドに倒れ込んだ時、マダム・ポンフリーの気配が近づいた。
久しく感じなかった凶暴な衝動がを支配しようとした。
マダム・ポンフリーの姿を視界に入れないよう、顔を枕に押し付けて手だけを突き出すと、液体の詰まったパックを渡された。
カーテンを閉め、マダム・ポンフリーの気配が離れていく。
ようやくは顔を上げると、渡された彼女専用の血液パックの封を切り、貪るように飲み干した。
一息ついて体のざわめきが落ち着いた頃、カーテンの向こうからマダム・ポンフリーの呼ぶ声がした。
「もう、大丈夫です」
ふつうに返したつもりが、出てきたのはやけに疲れた声だった。
カーテンを開けて入ってきたマダム・ポンフリーが心配そうな顔でを見ている。
はかすかな笑みで、大丈夫です、ともう一度言った。
「こんなにひどいのは初めてですね。何か心当たりは?」
の手からパックを取り上げて問うマダム・ポンフリーに、少しの間を置いて考えを述べる。
「たぶん、この効果継続中の薬のせいかと……それ以外、特に思い当たる節はないし」
「まったく……どうしようもないですね、あなた達は」
「え、ちょ、ちょっと! 私、被害者だから!」
「はいはい」
「信じてよー!」
「はいはい。元気になったなら授業の準備に行きなさい。──ああ、念のため今回は昼にも来ること。必ず来るのですよ」
まるでが自分からおもしろがって性別転換の魔法薬を飲んだような言い方に彼女は反論したが、マダム・ポンフリーは少しも信用していないように返し命令する。
は鼻息荒く不満を表したが、言われたことはもっともなので黙って頷いた。
朝食の時間にはまだ早かったのでグリフィンドールの談話室に戻ると、がベッド代わりにしていたソファで、リリーが何やら思い詰めた表情で毛布を握り締めて座っている姿が見えた。横顔だけれど、はっきりとわかった。
「どうしたの?」
と、が聞く前に足音にパッと振り向いたリリーの、どこ行ってたのという切羽詰ったような問いが発される。
はきょとんとして首を傾げる。
今回は違ったが、の朝の散歩はリリーも承知のはず。
やはり、どうしたのという疑問がわいた。
はリリーの手から毛布をそっと取ると丁寧にたたんだ。
「いつもの散歩だよ。それより、何かあったの? その……変な顔して」
「変な顔って失礼じゃない?」
その通りなのだが、他に言いようがなかったというのがの正直なところだった。
が、一応もう少し詳しく言い換えてみる。
「元気ないみたいだけど、風邪でもひいた?」
たたんだ毛布をソファの端に置き、リリーの横に座ると手のひらを彼女の額にあてる。
「熱はないみたいだね」
「風邪じゃなくて。ちょっと……夢見が悪かっただけ。何でもないわ」
「ふぅん。それにしちゃ、ずいぶん深刻そうな顔してたけど。どんな夢だったの?」
リリーはから目をそらすと、額から離された手を取り、膝の上でぎゅっと握り締めた。
よほど嫌な夢だったようだとは思った。
「悪い夢は、外に出すと単なる夢で終わるらしいよ」
軽い口調でそう言うと、リリーはチラリとを見て一度深呼吸をすると、小さな声で言った。
「が、退学になる夢を見たの。何でそうなったかはわからないんだけど、私が何を言ってももうダメで……。いやに、リアルだった」
「私、退学する気は全然ないけど」
「うん……」
入学したての頃なら、それでもいいと思っただろう。けれど、今はとてもそんな気は起こらない。
もっと魔法に関する勉強をしたいと思っているし、リリーやジェームズ達とも一緒にいたいと思っている。
「夢はただの夢だよ。そろそろご飯食べに行こうか。……そんな夢見るの、お腹すいてるからじゃないの?」
「そんなわけないでしょ!」
がからかい気味に言うと、あなたと一緒にしないで、といつもの調子でリリーが返した。
はそれに笑うと立ち上がり、リリーの手を引く。
今日の朝は何かなー、と鼻歌混じりに廊下へ出た。
最悪だった気分をどうでもよさそうな言葉で吹き飛ばしたの背を見て、リリーはどこか泣きそうな笑みを薄く浮かべる。
どうして、こうも簡単に心をすくい上げてくれるのか、と。
それはお互い様なのだが、案外、自分がしていることの影響力は自分ではわからないもので。
夢はただの夢。
心の中で反芻して、リリーはの横に並んだ。
昼食後にも医務室へ行ったは、何事もなく一日を終えようとしていた。
そのことに安堵して、今日最後の義務のためにマダム・ポンフリーを訪ねたのは夜の八時半頃だった。
図書館にこもっていたら予定より30分も過ぎてしまっていた。
ガミガミ言われるなぁ、と内心ヒヤヒヤしながら医務室へ急いでいると、廊下の真ん中に見知った人が顔面蒼白で膝を着いている姿が目に入った。
朝によく似た姿を見たなと思いつつ、今度はピーターかとはさらに足早になる。
「ピーター!」
と、声をかければ、彼は大げさなほどにビクッと肩を揺らしてへと目を向けた。
表情がひどくこわばっている。
何か尋常でないことが起こったのだと、すぐにわかった。
「何かあったの?」
と、ゆっくりと落ち着いた声で尋ねれば、ピーターはようやく時間が動き出したかのように、に飛びつき叫んだ。
「ジェームズが!」
それだけ言えばわかると信じていそうなピーターには悪いが、危機を察することはできてもどうにかすることはできない。
もピーターと視線を合わせるために膝を着くと、落ち着いて、と肩を撫でて詳細を尋ねた。
「ジェームズが、スネイプを追ってリーマスのところに行ったんだ……!」
「──はい?」
「ここのとこスネイプは僕達に仕返しをしようと様子を窺ってる感じだった……僕、聞かれたんだ。リーマスは毎月何をやってるのかって」
「お母さんのお見舞い、でしょ?」
表向きの理由を言ったに、ピーターは大きく頷く。それ以外、何も言えないから。
「同じこと、ジェームズとシリウスにも聞いたみたいで……シリウスが、シリウスが、そんなに気になるなら今日の夜、暴れ柳のウロを下りてみろって……っ」
は鋭く息を飲んだ。
瞬きも忘れて、苦しそうに顔を歪めるピーターを凝視する。
シリウスがそんなことを言うはずがないと怒鳴りたかったが、ピーターがわざわざこんな演技をしてまで嘘をつく理由も見当たらない。
故に、本当なのだろう。
事実だ、と認めたの行動は早かった。
「ジェームズがそれを聞いて追いかけたんだね? いつ頃? シリウスはどうしてる?」
「が来るまで5分もしてないよ。ほとんど入れ違いくらい。シ、シリウスは……部屋か談話室に……」
「わかった。ピーターはダンブルドアに連絡して。私はジェームズを追うから。頼んだよ」
「う、うん……! 気をつけて!」
は頷くと、廊下を駆け出した。
行き慣れた暴れ柳への道を飛ぶように走る。
が、今のにはひどく遅く感じた。
焦りでイライラしながらも、暗闇の中に枝を風に揺らしている暴れ柳が見えると、おとなしくさせるための木の枝を探しに近くの茂みを覗き込もうとしたが、すぐ目の前に使われた後らしい長い枝を見つけた。
の気配に気づいた暴れ柳が、その名の通り枝を凶暴に振り回しはじめる。しなやかな枝は強靭な鞭となって、彼女を払い飛ばそうと空気を唸らせた。
はほぼ匍匐全身で暴れ柳に這い寄り、目一杯腕を伸ばして弱点である幹の根元にあるコブを突く。
とたん、力が抜けたように静まる暴れ柳の枝。
は急いで口を開けているウロへ滑り込んだ。
走り出して少しするとジェームズの怒鳴る声が響いてくるのに気づいた。
何を言っているのかまでは聞き取れなかったそれは、しだいにはっきり拾えるようになってくる。
『リーマス』と『逃げろ』
後者はセブルスに対してだろう。
やがて、その姿も目で捉えられるようになった。
「ジェームズ!」
いつもと違うの声に、ジェームズはギョッとした顔を向けたが、薄暗い松明の灯りに照らされ淡いオレンジ色に照らされた白髪に気づくと、何故ここにいるのかと驚きに目を見開く。
瞬間、全力で押さえていたドアの向こうからの激しい衝撃に吹き飛ばされそうになり、慌てて踏みとどまった。
セブルスはその近くに座り込んでいる。
何を見たかにはわからないが、腰を抜かすほどのものを見てしまったのだろう。
はセブルスの横で足を止めると、乱暴に腕を引っ張った。
「早く外へ!」
「……!」
「死にたいの!?」
乾いた音が、ドアに突進する音に混じって響く。
がセブルスの頬を叩いたのだ。
けっこう強く叩いたから後ではれてしまうだろうが、かまっている場合ではない。
しかし効果はあったようで、まだ多少足元は覚束ないがセブルスは立ち上がった。
は来た道へ彼を突き飛ばす。
「早く上に!」
それだけ言うと、今にも突破されそうなジェームズに加勢しようと、そちらを見て──。
「ジェームズ!」
狼となったリーマスの前足が、ドアの隙間からジェームズを捉えようと空を掻いている様に、は叫び声を上げてドアに飛びついた。
足を挟まれる危険を感じたリーマスの前足がサッと引かれ、ドアは閉まったが、今度は激しく体当たりをしてきて、その衝撃にジェームズとの足が地面を擦った。
「こ、このままじゃ埒が明かない。朝までなんてとても無理……!」
舌を噛みそうになりながらジェームズが言うことはもっともだった。
人間の匂いに興奮しきったリーマスは、でも静められそうにない。
奥歯を噛み締め、は考えた。
リーマスの変身が解ける朝まで耐えるのは、無理。
には、一つしか方法が浮かばなかった。
「ジェ、ジェームズ、提案があるんだけど」
「嫌だ」
「ちょっ、まだ何も言ってないっ」
「キミの馬鹿力でも、どうにかするなんて無茶だ! 僕は、キミが噛まれるところも、リーマスが噛むところも、見たくない!」
の考えはお見通しだったようだが、その間にもドアは激しく叩かれ、軋み、そのうち粉々になるのではとさえ思ってしまう。
「で、で、でも、それ以外なんて……」
「考えるんだよ! キミと僕なら何だってできるっ」
心強い言葉だが、実際に妙案があるかと言えば何もなく。
数秒、2人は衝撃に耐え続けた。
そして、今度もが提案した。
「思い切ってドアあけて、失神呪文は──」
「ごめん、知らない」
5年生の範囲だ。仕方ない。
それなら、と再び思考を巡らせた時。
絶えることなく続いていたリーマスの体当たりが突然止まった。
ついに疲れたんだろうか、とジェームズとは顔を見合わせる。
「今のうちに──」
逃げようか、とが続けようとした直後、これまでにない強烈な衝撃が2人を襲い、とうとう堪えきれずに開いたドアに吹き飛ばされる。ドアが壊れなかったのが不思議なほどの力だった。
狭い通路のため、ジェームズとは地面に転がってショックをやわらげることもできず、強かに背を土壁に打ち付けた。
一瞬息をつまらせただったが、次の瞬間には襲い掛かってくるリーマスの影に気づき、背中の痛みも無視して跳ね起きる。
こんな仕打ちを受けたことでは頭にきていた。元来、やられたらやり返す性質である。
「いい加減にしろよ、てめぇ!」
闘志を剥き出しにして、凶暴な狼の姿に変貌してしまったリーマスに飛び掛るに、どうにか動けるくらいに体のしびれが抜けたジェームズは瞠目した。
「、何やってるんだ!」
「うるさい! リーマス! さっさと目を覚ませ馬鹿!」
ドシンッ、と音を立てて襲い来るリーマスをタックルで倒したは、爪を立てようとする前足を押さえ込み、もう片方の手でリーマスを叩いていた。
加勢も忘れて思わず見入ってしまっていたジェームズに、不意にの声が飛んでくる。
「ジェームズ、ダンブルドアを! ピーターが呼びに行ってるから、ダンブルドアをここへ!」
「なっ……ここにキミ一人残せって!?」
「あんたがいるとリーマスはいつまでも落ち着かない! 人間の匂いはダメなんだ、知ってるでしょ!」
「そんなのだって」
「いいから早く!」
振り回されたリーマスの前足をかわしたが、チラッとジェームズのほうを向いて声を荒げる。
その時に見えたの目に、ジェームズはハッと息を飲んだ。
今まではそれどころではなくて意識しなかったのだが、向けられた目は今のリーマスのように、夜行性の生き物のように金色に反射している。
目の錯覚ではない。
頭が混乱しかけたジェームズだったが、リーマスに馬乗りになっていたが薙ぎ払われた瞬間、我を取り戻して叫んだ。
「!」
「だいじょーぶ!」
はジェームズに突進しようとしたリーマスの足を引っ掛けて転ばせる。
ホッとしたジェームズはすぐにでもダンブルドアを連れてくる、とリーマスともみ合うに叫んだ。悔しいが、自分には変身した狼人間と渡り合う力はないと判断したためだ。
「負けるなよ!」
応えるように、は狼に体当たりをして屋敷の奥へと突き飛ばす。
ジェームズの足音が急速に遠ざかっていく。
うつ伏せに倒れたリーマスの背に、すかさず乗って押さえつけたは杖を手にすると失神呪文を打ち込む。
「退学になる気!? ジェームズ達泣くよ!」
あまりうまくないの魔法と、変身したことで呪文への耐久力でも上がったのか、一回ではほとんど効果が得られなかったため、続けて数回失神呪文を放った。
最後の抵抗とばかりには乗っていた背から振り落とされたが、それ以上の攻撃はなく、狼はぐらりと傾いて倒れた。
静かになった室内に、の荒い呼吸音だけが響く。疲労で倒れそうだった。
気を抜けば眠ってしまいそうだが、ここで眠ってしまっては後で面倒なことになると思い、ふらつく足を叱咤して立ち上がる。
重い足を引きずり壁に寄りかかるようにして通路を進み、狭いウロから地上へ這い出ようと手を伸ばした時、その手が誰かに掴まれた。
「!? 無事だった!」
ジェームズの声だった。
彼はを引っ張り上げると、安堵で泣きそうな表情で見つめた後、ギュッと抱きしめた。
「よかった……あたたかい」
「そりゃあ、生きてるからね……。でも、眠い……」
眠っていいよ、とジェームズが言う前にの寝息が彼の耳に届く。
ジェームズはを背負うと、まっすぐに医務室へ向かった。
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