抱擁なんていう優しいものではなく、しがみついてくるような息苦しさを覚える抱きしめ方。
が苦しさのあまり身じろぎをすると、
「ごめんね、もう少し我慢して」
と、頭上から女の声が降ってきた。を万力で締めるかのごとく抱きしめている人だろう。
すると、前方から男の声がした。苦笑の色がある。
「首が締まってるんじゃないの?」
「え、まさか──っ」
女が言い返そうとしたのと同時には女ごと体を横に投げ出された。妙な力がかかったのだ。車に乗って急カーブを曲がった時のような。アスファルトとタイヤのこすれる耳障りな音が聞こえたから、本当に車内にいるのかもしれない。
それにしても、とは違和感を覚える。
自分の体は相手が大人とはいえ、すっぽり包まれるほど小柄ではなかったはずだ。どちらかと言えば長身である。
いったいどういう状況になっているのか確かめたかったが、女の腕の力は緩まない。
車を運転しているであろう男が舌打ちした。
「しつこいな」
「ダメ、行き止まりだっ」
「ヤバッ。引き返……せないか。おい、降りるぞ」
2人は早口に言葉を交わす。
やがて車は停まり、3人は外に出た。すぐ脇に細く暗い路地があった。
は初めて今が夜であることを知った。
そして、自分の背が縮んでいることも。
頭が混乱しはじめた時、ふわりと体が浮く。女に抱き上げられたのだ。
反射的に抱きつくと、女が走り出す。自然、顔が後ろを向いているの目に見えた男の姿に、の心臓は大きく脈打った。
マリオンが見せてくれた『父』が、そこにいた。
ほとんど明かりがなくてもの目にははっきりわかる。
あの写真より少し大人びていたが、確かに『父』だ。
──これは、過去を夢に見ている?
マリオンに父のことを聞き、その最期に何も感じなかったわけではない。胸の奥では真っ黒な炎が燃え立っていたのだ。
この夢はあの時のことが引き金となって出てきたのだろうか。
あいまいになっていた記憶のかけら。
きっと、今は逃げている最中なのだろう。魔法省か他の何者かから。
ふと、と父の目が合う。
父は強気な笑みを見せた。
「心配すんな、大丈夫だ」
けれど、暗闇をも見通すの目には父のずっと後ろから数人が追ってきているのがはっきり見えていた。
突然を抱いている母の足が止まる。
「行き止まりになっちゃった……!」
がんばって首を回してみれば、目の前に高い壁。3メートルくらいあるだろうか。でも、ここを越えることができたら追っ手から逃げられるだろう。
軽く息を弾ませながら壁を見上げていた父が口を開く。
「お前なら」
「ダメ」
父の言葉は母の否定に遮られた。
「離れ離れは嫌」
そして母はを地面に下ろす。
見上げると、と同じ暗金色の瞳が闇に光っていた。綺麗な黒い髪。の目の端にある自身の髪の色と同じ色。
そうだ、確か最初は黒髪だった、とは思い出す。
母はと目線を合わせると優しく言った。
「すぐに終わるから、そこの隅で待っててね。──いい子」
一度だけ頭を撫でられる。
はおとなしく隅っこに身を寄せ、さらに目立たないようにしゃがんだ。
「追い詰めたぞ!」
追っ手の一人が叫んだ。全部で5人。は戦力にならないから除くとして、たった2人を追うにはずいぶん多い人数ではないか。
父は杖を抜き、母はその血による優れた身体能力で対応するために身構えた。
これから恐ろしいことが起こるとわかりきっているのに、は目も耳もふさぐことができなかった。身を小さくしながらじっと見つめている。
学校の魔法の掛け合いとは違うのだ。
狭い路地でいくつもの魔法光線が交差し衝突し、両脇の壁を砕く。
多勢に無勢で父も母もがんばった。それでもやはり人数の多いほうが有利で。
どんなに父の魔法が正確で素早くても、どんなに母が魔法光線を巧みにかいくぐって魔法使いに接近しても、不利は不利で。2人の追っ手を倒したが、そこまでだった。
呼吸もまばたきもできずに身を硬くしているの前で、2人は声を上げることもなく倒れた。
「……っ」
は何かを叫ぼうとしたが、声は出なかった。
確認しなくてもわかる。両親はもう息をしていない。
震える自身の中で、夢の外のはセストラルを思い出していた。
──ああ、この記憶があったからセストラルが見えたんだ。
記憶の中のは、早くここを離れなくてはと焦る。
こんなの嘘だ、と気が狂いそうなほどに願う。
わけのわからない恐怖。
「おい、確か子供がいただろ」
ビクリ、との肩が震える。
「──いた、あそこだ。チッ、母親と同じ、気味の悪い目をしていやがる」
「どうする? 連れて帰れという話だが」
「後の面倒を残すくらいならいっそのこと……」
「おいおい」
「なぁに、親を守ろうと飛び出してきて巻き添えを食ったってことでいいだろ。こっちだって、2人やられてんだ」
残りの3人が代わる代わる話している。
幼いに、その全てが理解できたわけではなかったが、恐ろしいことを話していることはわかった。
すぐにでも逃げなければならないのに、どうしてか足は石になったように動かない。
やがて3人が近づいてきた。手には杖を持っている。
「──すぐ、楽になる」
低い声は、体の芯から震えさせた。
その時やっと、は声を出すことができた。
今まで留まっていたものが爆発したかのような悲鳴。
その時、自分が何をしたのかはよく覚えていない。
何人かの男の手を振り払ったような気もするし、の抵抗に苛立った男に殴られたような気もする。
記憶をたどっているらしいこの夢でも、半分過去の自分の意識の中にいるせいか、はっきりとしない。
わかったのは、この恐怖から逃れるために姿くらましをしたことだった。
どこへ、と意識することなく発動させた魔法はをマグルの孤児院の前に飛ばし、直前までの悪夢のような記憶を消した。そして次の日には、髪が真っ白になっていた。
それから、今日までの日々が続く。
の心は不気味に乾いていた。
ふと気づけば、記憶の夢は終わりは白いだけの世界にいた。
上下左右もない、白の世界。
「なんだここ」
声に出してみるが、返ってくるものはない。
とりあえず前に進んでみようと歩き出すが、立体的なものが何一つないここではちゃんと進んでいるのかどうかもわからない。歩いているという感覚さえないのだ。
夢ならとっとと覚めてくれ、とはため息をついた。
足を止めて改めて周囲を見回してみるが、やはり何もない。
怖い、とは思った。
誰でもいいから出てきてほしい。リリーだったらどんなに心強いか。この際メイヒューでもいい。
けれどの口から出てきたのは。
「……父さん、母さん」
先程の夢の影響か、もういない両親を呼んでしまった。
もちろん返事なんてこない。
両親はあの暗くて狭い路地に倒れたまま。
あの後どうなったのだろうか。いくら何でも放置ということはないだろうから、あの3人か魔法省の役人がどこかに運んだのだろうが、きっと粗末に扱われただろうことは想像に難くない。
死を確かめたわけではないけれど。生きていたら必ず探し出してくれたに違いないから、2人はあの時に死んでしまったのだろう。
さっきまで動いていた人が、もう二度と動かない。話さない。
動くのはの思い出の中でだけ。
人というものは肉体と魂からできていると言うけれど、死というのは肉体の状態を指すのか魂の状態を指すのか。両方か。けれど、死んだら魂は天国へ行くらしい。
両親の魂は天国へ行けたのだろうか。
「……天国って、どこにあるんだろ」
ポツリと呟く。
天国行きの標など見たこともない。
セストラルなら知っているのだろうか。
死んだら、人はいったいどうなるというのか。どこへ行くのか。行き方もわからない天国か。
ほとんど首なしニックに聞いたら答えてくれるだろうか。
「ああ、もうわからん! いったいここは何なんだー!」
煮詰まってきた思考をあっさり放棄し、は叫んだ。
と、その時。今までいっさい感じなかった気配というものを感じた。
「何を叫んでんだか。それともただのでかい独り言だったか?」
からかうような口調は、耳に馴染んだもの。
振り向けばやはりウィリスがいた。同じ施設の住人。
は心から安堵した。
あの夢とこの世界とで、そうとう緊張していたようだ。
「ここから出たいんだけど、どうしたものやら。ウィリスは何でここに? あ、もしかして私のこと起こしに来てくれた?」
「当たり。いつまでもグースカ寝てて邪魔だから起こしに来た」
「邪魔って……」
「ほら、あっちだ」
ウィリスの指さすほうを見れば、白い世界の中にぼんやりと青白く光る1本の道筋。それは緩やかに蛇行しながらずっと向こうへと続いている。
は道の先を見ようと背伸びをしてみたが、何も見えない。
「ずいぶん遠そうだねぇ」
「そうでもないさ」
「でも、さっきまでこんな道筋なかったのに」
「お前の目が悪いだけだろ」
夢の中でも口の悪いウィリスを軽く睨む。
当然、そんなことを気にする人物でもなく、彼はの頭をやや乱暴にクシャクシャと撫でる。
「ちょっと!」
「あれ、お前また背が伸びたな。それ以上でかくなってどうするんだ?」
「うるさいな。大きくなったらウィリスを握り潰してやる」
「どこまででかくなる気なんだよ」
ウィリスは軽快に笑う。
それからウィリスはの肩を掴んで体を反転させると、ほんのり光る道筋へと背を押した。
「迷うなよ」
「ウィリスは行かないの?」
ウィリスはそれには答えず、笑顔でを見送っている。
突然、カクンとの足が勝手に動き出した。あっという間にウィリスから遠ざかっていく。
「何これ!? ウィリス!」
驚いたがその名を呼んでも彼は動かない。それどころか、野良猫でも追い払うようにシッシッと手を振っている。
「止まれ、このバカ!」
自身の足を叩くの耳に、もうかなり小さくなってしまったウィリスの声が届いた。
「しっかり生きろよ」
はハッとして振り返る。
何だ今の言葉は。
こみ上げる不安。
まるで別れのようなセリフ。
どんどん遠くなっていく彼。このまま別れては、もう二度と会えなくなってしまうような、そんな不安での胸はいっぱいなった。
「ウィリス、ウィリス!」
不安はいまや予感となり、確信に近づいていく。
時間的には10年程も昔だが記憶的にはついさっき両親を亡くしたばかりだというのに、またすぐに誰かを失うのか。
けれどの足は機械にでもなったかのように自動的に歩み続ける。
さらに道筋の光は強さを増していた。
一歩ごとに。
嫌だ、とは叫び続けたがやがて視界は目を開けていられないほど光に満たされていった。
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