いつの間にか、また真っ白な世界にいた。
あの時と同じく上も下も右も左も真っ白で、気が狂いそうなところだ。
前は叫んだらウィリスが来てくれたけれど……。
「ウィリスー、また来ちゃったよー! おーい!」
の呼びかけに返ってきたのは耳が痛くなるほどの沈黙だけだった。
声が木霊することもない。
「おーい、誰かいないのかー!」
今度は不特定多数に向かって叫んだが、結果はやはり同じだった。
はだんだん心細くなってきた。
どうせ夢ならさっさと次の展開に移ってほしいと思った。
すると、その思いがどこかの何かに通じたのか、ふと足元に影が落ちた。いや、よく見たら影ではない。真ん丸の黒い染みがを中心にみるみる広がっていく。
まるで底なしの落とし穴のようだ、と思った瞬間、の体は落下感に襲われた。
どんどんどんどん落ちていく。上を見れば、はるか遠くに白く丸い穴があった。
いったいどこまで落ちていくのか。このまま落ち続けたら、下に着くと同時にの体は無残なことになるだろう。
は慌てて杖を取り出そうといつも突っ込んでいるポケットに手を伸ばした。
が、そこには何もない。
「嘘!? ちょっと困るよ!」
死の恐怖にパニックに陥りかけた時、ふと世界が途切れた。
それから時間が過ぎたのか過ぎなかったのか、は地に足を着けていた。こうなるまでに何が起こったのかはまったくわからない。
ただ、周囲は依然として真っ暗なままだ。
はその場に何となく腰を下ろして上を見上げたが、もう白いものは点も見えなかった。
視線を下ろし、改めて周囲を見回してもやはり何も見えない。地に触れてみても、確かな感触を得られない。音もない。
「私……死ぬのかな」
特に何も考えず感覚だけで漏らした呟きだったが、口にしたとたんの心が落ち着きをなくした。
短く息を飲み込み、膝を抱えてギュッと身を縮める。
「リリー……」
瞼の裏に今一番会いたい人を思い浮かべたが、聞きたい声は聞こえない。
──ひとり。
夢の世界だかどこだか知らないが、は暗闇の中にたった一人だった。
けれど、とは気づく。
この暗闇のことをよく知っている、懐かしい、と。
たとえば、両親を目の前で殺された時の冷たく覆ってきた感覚。マグルの孤児院で初めて魔法の力があらわれて以降の、子供達や院母達の目。まるで悪魔の世界からやって来た生き物を見るような目だった。それから、どうやら満月の夜に血の欲求が出ると自覚し、その使い方を理解した時の自分に対する深い絶望感。汚い裏町で感じた世界に対する凶暴な衝動。無理矢理魔法界に引きずった魔法省の魔法使いへの滾るような憎しみ。
その他あらゆる負の感情を集めたらこんなところになるのではないかとは思った。
それはいつもの隣にいた感情だ。
どんなに楽しいことや嬉しいことを得ても、決していなくならなかったものだ。
よく知っているここは、懐かしくて、恐ろしいところだった。
早く出て行かなくてはならない。いつまでも浸っていたら抜け出せなくなる。
二度とあの人達に会えなくなってしまう。
けれど、もしもここからどこへも行けないというなら、簡単だ。目も耳も心も閉じてしまえばいい。それでみんなおしまい。
怖いことも何もなくなるだろう。その代わり、自分は自分でなくなってしまうが。
急にひどい疲労感に襲われ、はゆっくりと感覚を閉ざしていこうとしていた。
その時、何かを聞いた気がした。
バッと顔を上げて耳を澄ます。
やはり何も聞こえない──いや、小さく小さく聞こえてくるものがある。
相変わらず真っ暗で何も見えないけれど気分的に目を閉じて、全神経を耳に集中させた。
ずっと、ずーっと遠くのどこか。あるいは心の奥の奥のほうからを呼ぶ声があった。
ひどい砂嵐の向こうから聞こえてくるかのような声。
「──行かなくちゃ」
ゆっくりと、は立ち上がる。
どこにどうやって行こうというのか。
頭ではわからないが、感覚はわかっている。
は迷うことなく、その感覚に従った。
すると、遠くのほうに羽根ペンの先で突いた程度の光が現れた。きっと六等星の輝きよりも弱い。
それでも、この暗闇の中では一番目立つ。にとっての道しるべ。
あの光がいつ目の前に来るのか。手の届くところに来るのか。
いや、向こうから来るのではなくこちらから向かうのだが──とにかく、気の遠くなるような距離なのはわかる。
しかしは歩を止める気は微塵もなかった。
必ず、たどり着く。
不思議とそんな確信があった。
あの小さな光を、掴めたのだろうか?
結末を見ないままは瞼の裏の眩しさに目を開いた。
すると、どこかで見たような天井が目に入ってきた。
一度瞬きして視線を巡らせると、右側に椅子に座ったまま眠っているリリーがいた。うつむいているためはっきりとはわからないが、憔悴した様子だ。
どうかしたのかと起き上がろうとして、は体の痛みに小さく呻いた。
すると、その声に反応してリリーが目を覚ます。
ぼんやりと焦点の合っていない緑の瞳は、すぐに意志を持ち強い光を宿した。
「おは……」
「!」
の挨拶はリリーの叫びに綺麗にかき消された。
一瞬つり上がったリリーの目は、次の瞬間には涙でいっぱいになっていた。
そして普段からは考えられないような乱暴さで立ち上がると、ギュッとを抱きしめた。
ガタン、と大きな音を立てて丸椅子が倒れた。静かな医務室に鋭く響く。
しかしそんな音も気にならないほど、はリリーの涙に動揺していた。
「3日も目を覚まさなかったのよ。面会を許されたのだって今日のお昼で……」
話すリリーの声は震えていた。一度鼻をすすった後、彼女は小さな声で続ける。
「私が現場に着いた時には、もうあなたはここに運ばれた後だったけど、医務室まで血が点々と残っていて……マクゴナガル先生から、運ばれたのはだって聞いて、どんなに驚いて目の前が真っ暗になったか……わかってるの!?」
最後に突然大声で叫ばれ、はビクッと肩を震わせた。
その時、カーテンを開けてマダム・ポンフリーが顔を覗かせてきた。
リリーは慌ててから身を離し、目元をぬぐった。
は傍までやって来たマダム・ポンフリーに険しい表情で見下ろされ、長い説教が来ることを覚悟した。
しかし、マダム・ポンフリーはここに運ばれてくる他の生徒に対するのと同じようにに接した。
「具合はどうですか?」
「特に……問題はないです」
手首や肩をぐるりと回した後には答えた。
マダム・ポンフリーは頷くと、の手を取り、関節のあたりを押したりしながら診察をしていく。
「……そうですね。大丈夫そうですね。けれど、念のため今日一日はここにいること。明日までに何事もなければ退院していいです」
「わかりました……」
やることを終えたマダム・ポンフリーは、不自然なほどにさっさとベッドから離れていった。
閉じられたカーテンの中に再びリリーとだけの空間ができる。
何をどうしたらいいのかは考えたが、良い案は浮かばない。ただ空気が重い。
その空気をさらに重くするような声でリリーが口を開いた。
「マクゴナガル先生がおっしゃってたわ。はとても危険な魔法を使おうとしていた形跡があるって。とても……攻撃力のある魔法だろうって。いったい何をしようとしてたの?」
は目を合わせたくなくて、瞼を伏せた。
リリーは追い討ちをかけるように続ける。
「私に隠れて何かをやっているのは気づいてたわ。でも、誰だって、人に見られたくないものや知られたくないものがあると思って、何も言わなかった。それがまさかこんなことになるなんて……」
顔を覆いうなだれるリリーを、は横目に見て言おうか言うまいか迷った。
このまま沈黙を貫くこともできるだろう。リリーはそれがどんなに悲しくても、きっとの気持ちのほうを尊重して聞かないでいてくれるだろう。
でもその結果、2人の間には永遠に埋まらない溝ができるのだ。
何年も経ってから今日のことの真相を話したのでは間に合わない。打ち明けるなら今しかないのだ。
目を閉じて、考えて、は決断した。
打ち明けても溝はできるかもしれない。むしろ、わかりあえない存在として、話さないでいるよりも深い溝になるかもしれない。それでも、あの暗闇の中で光となった声はリリーのものだったように思えるから、はたとえ関係が壊れてしまったとしても、知っておいてほしいと思った。全てではなくても、ほんの一部でも。
「あのね、リリー。ちょっと長いんだけど、聞いてほしいことがあるんだ」
静かなの呼びかけに、リリーはゆっくりと顔を上げる。
はしっかりとリリーの目を見て話し出した。
「夏休みに私が事故にあった日、施設で私によくしてくれてた人が殺されたんだ」
「え……?」
「殺したのは死喰い人。誰かなんて知らない。それよりも良くないのは、死喰い人がやって来たのに闇祓い局への直通線に連絡もしないで逃げた魔法省の職員だよ。あいつさえ連絡していれば、他の人だって助かったはずなのに!」
最後のほうは小さな叫びとなり、布団を握り締める。話しているうちに感情が昂ぶってきてしまったのだ。
リリーはまさかと思い息を呑んだ。
「……復讐しようとしたの?」
「うん。許せなかった。どうしても許せなかった。あいつが今でも息をしているのかと思うと、その場に行って八つ裂きにしてやりたいと思った。でも……」
はそこで一度言葉を切って息継ぎをした。
「あいつ、どんなに馬鹿そうに見えても仮にも魔法省の大人の魔法使いだから、きっと敵わないから準備が必要だと思ったんだ。それなら、学校の図書館に行けば良い方法を見つけられるって」
「それで、見つけたの?」
「見つけた。確実に息の根を止める方法を見つけたよ。闇の魔法なんて使わなくても、いくらでも方法があることがわかったんだ。──実験で失敗してこの有様だけど」
心底残念だとため息をつく。
リリーはその様子に背筋に寒気を覚えた。
人殺しの方法の実験に失敗して残念がることに。
リリーの気持ちにまるで気づかないは、握り締めた自分の拳を見つめて、今度こそ、と続ける。
「次は、失敗しない」
「やめてくれって言っても?」
「やめない。地獄に落ちるって言われてもやめないよ」
「亡くなった人は、それを喜ぶ人なの?」
「さあ、どうかな。でもこれは私の勝手だから。私の気がおさまらないから」
「復讐したってきっとおさまらないわよ! それに、殺しに殺しで返したらあなたがダメになるわ! 絶対!」
突然のリリーの大声だったが、は驚きもせずに対抗するように同じく声を大きくした。
「そんなこと知ったことか! あいつが見殺しにされたって聞いて、どんなに悔しかったか憎かったか! あの魔法省のクズを殺せるなら何だってしてやる!」
の全身からほとばしるような憎悪の気にあてられ、リリーは身を硬くした。
はまるでリリーがその憎い仇であるかのように、彼女を睨みつけていた。
ふだん、ふざけたような態度の多いの中に、これほどの激しい憎しみがあったことは衝撃だった。しかも今学期に学校に来てからずっと抱えていたのだ。
言葉の出ないリリーに、は暗い決意をはっきり告げた。
「一生かかっても、やめない」
──止められない。
リリーはその点に関しては観念してしまったが、負けず嫌いなら彼女もに引けをとらない。
それなら、とリリーは声が震えないように注意しながら口を開いた。
「それなら、もう止めない。その代わり、私も一緒にいるから」
「……は?」
「手伝うつもりはないけど、離れるつもりもないから。復讐を遂げた後のをそのままになんてしておけないでしょ。どうせあなたのことだから、悪いことでも目一杯手を染めてどうしようもないことになってるでしょうから、私が更生させるわ」
まったく想像もしていなかった展開に、は唖然としてリリーを見つめた。てっきり縁を切られると思っていたのだ。そんな雰囲気だと感じていた。
目を丸くして驚くばかりのに、リリーは悪戯が成功した子供のような笑顔を見せた。
と、まるで狙っていたかのように、勢いよくカーテンが開かれてどやどやと人が雪崩れ込んできた。悪戯仕掛け人の4人だ。
先頭にいたジェームズがグッと親指を突き出して言った。
「もちろん僕達も手伝うよ!」
いったいいつから聞いていたのかとが問う前に、他の面々も口を開く。
「こいつが駄々こねたら力ずくになるだろ?」
「ってけっこう馬鹿力なんだよね。エヴァンズだけだとちょっと辛いかもよ」
「みんながいたほうが早く済むしね」
シリウス、リーマス、ピーターと続いたが、ここでとうとうが割り込んだ。
「ピーター、早く済むって……荷物の移動作業じゃないんだから」
「似たようなもんだろ」
ピーターの代わりに答えるシリウス。
「そもそも俺は反対だ。縛り付けてでもそんな馬鹿な真似はやめさせたいが、エヴァンズが許すなら仕方ない」
「同じく。……ってさ、頭良いのにちょっと馬鹿だよね」
嫌味っぽく笑うジェームズにはムッとした。
ジェームズの横ではリーマスとピーターが何度も頷いている。
ますます気に食わないはボソッと言い返した。
「そっちも馬鹿なお人好し……イタッ」
ビシッとの脳天に落とされたのは、リリーのチョップだった。薄ら笑いを浮かべていて、何だか不気味だ。
「、あなたのために5人もの人が動こうとしてるのよ。少しは感謝してみせたら?」
頼んだわけじゃない、と、ここで言えるほどは人の気持ちのわからない人間ではなかった。
驚きはいまや感動に変わりつつある。同時に申し訳なさと。みんなを巻き込む気などなかったのだ。それなのに、事情を知った彼らは自ら巻き込まれてやろう、と言う。こんな人達は初めてだった。
いったいどんな顔で何を言ったらいいのか、にはわからなかった。
だから、ついしかめっ面になってしまう。
拒絶とも取れる態度だというのに、リリーは話をまとめるようにパンパンッと手を叩いた。
「それじゃ、も納得したことだし。私達は帰りましょう。マダム・ポンフリーもそろそろそう言ってくるでしょうね」
「ちょっとリリー、私は納得なんて……」
「聞かない! 私はギリギリの線を譲ったわ。も私を友達と思ってくれるなら、少しは譲ってよ」
に背を向けて言い切った後、リリーは泣きそうな声で付け足した。
「私達、ずっと友達よね……?」
いつもの頼もしさが消えたリリーの背を見上げる。
リリーの信用を裏切る真似をしたのに、まだ見捨てずにいてくれる彼女には折れるしかなかった。
自然との頬は緩み、きつく握り締めていたリリーの手をそっと取った。
小さくその手を揺さぶれば、握り拳がだんだんほぐれていく。
そうすると、不思議なことにの荒れていた心がしだいに凪いでいったのだ。憎しみは消えたりはしないけれど。
からリリーの顔は見えなかったけれど、ジェームズ達を見ればどんな顔をしているのか、おおよその見当はついた。
リリーは振り向かずに「またね」と言うと、開けっ放しになっていたカーテンをくぐって足早に出て行った。
それを見送ったリーマスが仲間達に声をかけた。
「さて、僕達も行こうか」
「そうだな。おい、ジェームズ……ジェームズ? お前、何を目をハートにしてんだよ。エヴァンズか? さっきのエヴァンズにか!? ──やってらんねぇよ、まったく!」
ポヤンとしてリリーの去ったほうを見ている親友に、シリウスはパチンと額を叩いて天井を仰いだ。
いつもの調子の2人に苦笑したリーマスは、ふとに視線を戻すとスッと顔を近づけてひんやりした声音で言った。
「僕、すっごく怒ってるんだ。忘れないでね」
ゾクリと背筋を寒くしたの顔色がみるみる青くなっていく。
それに満足したのか、リーマスはやさしくの肩を叩くとジェームズとシリウスを引っ張って行ってしまった。
最後に残ったピーターは、やれやれと肩をすくめるといまだに血の気の失せた顔のに、安心させるような微笑みを見せた。
「大丈夫だよ。何もしないって。だって、最初に連絡受けた時、リーマスはすごい取り乱し方して、落ち着かせるの大変だったんだから。今日だってここに来ての顔見るまでずっとソワソワしてたし。僕ももちろんそうだけど、心配したんだよ」
「……うん」
「じゃあ、また明日」
「ありがとう」
カーテンを閉めて帰っていくピーター。
はしばらくの間そのカーテンを穏やかな表情で見つめていた。
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