21.うた

3年生編第21話  禁じられた森でのこと以来、とスネイプは気まずいままだった。いや、だけが気まずい思いをしていると言うべきか。スネイプはいつも通り──無愛想だ。
 それに、は何となくぼんやりと日々を過ごしていた。宿題もあまり捗っていない。
 そんな状態のまま、シリウス達が戻ってくるはずの日を迎えた。
 何時ごろ着くのかわからないので、は談話室で宿題に手を付けながら待つことにした。奥が深くておもしろいけど、使いこなすためのセンスが足りない古代ルーン文字学だ。
 ルーン文字は一つの文字にたくさんの意味がある。その文字を並べて新しい意味を生み出し魔法とする学問である。
 はこれは詩だと思った。そして悲しいことに彼女に詩の才能はない。物語や詩に触れる機会が極端に少なかったというのもあるし、精神活動に時間を費やせるほど余裕のある生活ではなかった、という理由もある。何より現実主義であるにとっては、飯の種にもお金にもならないものに用はなかったのだ。文字に耽っている暇があったら、少しでも多くお金や食べ物を調達することに脳みそを使うほうがよほど重要なことだった。文学や詩で生活していくなど、にとっては寝言のような話だった。
 ホグワーツに入学してからは、少なくとも食の心配はなくなったのでその分本に触れる機会は格段に増えたが、やはり物語や詩の本を手に取ることはなかった。
 そんなわけで苦戦中である。
「そういえばリリーはよく詩や物語を読んでたっけ……。この問題も解けるかな。あ、ダメだ。リリーはこの科目取ってないんだ」
 落胆しただったが、再び希望に瞳を輝かせて顔を上げる。
「そうだシリウス! この科目にいたよ! うん、見せてもらおう」
 今までの課題でお互いに相談しあったことはなかったが、今回はお手上げだとは思った。
 そうと決まれば他の宿題を片付けよう、と闇の魔術に対する防衛術の課題に手を伸ばす。
 談話室にはしかいない。
 珍しいことにグリフィンドールで今年のクリスマス休暇に残ったのはだけだった。スネイプのいるスリザリンは上級生らしき人が一人いた。レイブンクローに一人、ハッフルパフに二人。残った生徒は全部で6人だ。
 教科書と図書館から借りてきた参考書、それと下書き用の羊皮紙を広げてからどれくらいの時間が過ぎただろうか。
 夕方頃、廊下に続く出入り口の向こうがドタバタとうるさくなった。
 が顔を上げてそこを見ていると、案の定4人の男の子が我先にと這い上がってこようとしていた。あんまりいっぺんに穴に手をかけるものだから、一人分の幅しかないそこで彼らは見事に詰まっていた。
 ぎゃあぎゃあ騒ぐ声に吹き出す。そのうち『太った婦人』に怒られるぞと思っていたら、事実その通りになった。彼女はけっこう気が短い。
 は席を立ち、まだ詰まっている4人の救出に出ることにした。そうしないと、いつまでたっても収まりそうになかったからだ。
 先頭にいた誰かの手を引っ張ると、それはシリウスだった。すっかり手が冷えている。
「まったく、部屋に入るくらいすんなり出来ないのかな。幼児じゃあるまいし」
「うるさい。寒いんだよ。お前も冷えてみればわかる」
「ぎゃー! 触るな冷たい!」
 氷のように冷たい手で頬を挟まれは悲鳴をあげてシリウスの手を払い落とす。全身に鳥肌がたった。
 その反応がおもしろかったのかシリウスは笑い声をあげながらを追いかけた。
 やっと暖かい談話室に入ってこれたジェームズ達3人は、ソファや椅子を引っくり返しながら駆け回るシリウスとに、何をやっているんだかと苦笑するのだった。
 ようやく再会の騒動が落ち着くと、は寝室から彼らにクリスマスプレゼントとしてもらったお菓子と紅茶のセットを持ってきた。
「開けてなかったの?」
 リーマスが意外そうに目を丸くする。
 は4人が陣取ったテーブルの上で箱を開けた。
「せっかくならみんなが来てから一緒に味わおうと思ってね。一生懸命我慢してたんだ」
「そうだな。開けたら最後、お前なら一瞬で食い尽くすもんな」
「ふふふ……シリウスは紅茶じゃなくて水でいいみたいだね。お菓子もいらない、と。4人でおいしく食べようね」
「おい」
「じゃ、いれてくるから座ってて」
「あ、手伝うよ」
 茶葉を持って立ち去ろうとしたの後をピーターが追った。
 続いて「僕も」とリーマスも立つ。
 来たばかりだから疲れているでしょ、とは遠慮したが2人は「いいからいいから」と彼女の背を押して給湯コーナーへ進んでいった。
 3人を笑顔で見送るジェームズに、シリウスが低く話しかける。その表情に、先ほどまでのふざけた様子は見えない。
「なあ、のやつ何か変じゃないか? いや、変だ」
が変なのは今に始まったことじゃないだろう」
「そうだけど……いや、そうじゃなくて。マジな話だ。どうして……どうしてあいつから闇の魔術の気配がするんだ?」
「……え? 何だって?」
 シリウスは深刻な顔で言ったが、ジェームズにはその意味はわかりかねた。
 そんな彼に少し苛立ったようにシリウスは続ける。
「勘違いなんかじゃない。ついさっきまでその只中にいたんだ。あの気配を間違うわけがない」
「まさか……。確かに彼女なら好奇心からその手の本は読んでそうだけど、実際に使うかな」
「使ったなんて考えたくないけど、でも……」
 リーマスとピーターとふざけ合いながらお茶の用意をしているの背を見るシリウスの目は、心配の色に染まっていた。
 ジェームズは、シリウスを見て、を見る。
 闇の魔術をすぐ傍にして育ったシリウスの感覚を疑う余地はない。
 となると。
「様子を見よう。本を読むだけじゃ満足できなくて、ちょっと試してみただけかもしれないし」
 しかしシリウスはジェームズが言うほど楽観的には考えられなかった。
 ほんのちょっとだけ、が深みにはまっていく第一歩だったりするのだ。
 2人の心配をよそに、達は賑やかにおしゃべりをしながらティーセットを持ってきた。
 にっこりしながらはシリウスの前にカップを置く。
「お水だったよね、はいどうぞ。淹れたてだよ。よく冷えてる」
「おいこら」
 カップの中身は本当に水だった。
 その間にリーマスがみんなの分のカップにあたたかい紅茶を注いでいく。芳醇な香りがふわりと漂う。ピーターはお菓子の包みを食べやすいように開けていた。
「なあマジで? マジで水なの?」
「あっはっは。冗談に決まってるでしょ」
 心行くまで笑ったはカップの中の水を暖炉に捨てて、他のカップと並べた。
 お前がやると冗談に見えないんだよ、とブツブツ言うシリウス。
 それからみんなでお菓子を食べながらクリスマスに何をしたかを話しあった。
「シリウスは?」
 と、が聞くとシリウスははっきりしすぎるくらいに顔をしかめてみせた。
 それじゃどんなに端正な顔立ちも台無しだ、と吹き出す
 もっとも、この顔を見たくてわざと尋ねたのだが。
 しかしここで律儀に答えるのがシリウスだった。
「狸と狐と悪魔がお互いを笑い合ってた。アホだな、あいつらは」
 自分の心に正直に生きるシリウスには耐えられない世界だった。
 うんざりしたようにため息をつくシリウスには言った。
「抜け出せてよかったね」
「まるで夜逃げのようだったよ。あのスリルは滅多に味わえるものじゃないね。ピーターなんかチビりかけてたし」
「そ、そんなことないよ!」
 楽しそうに言うジェームズと抗議するピーター。
「嫌な例えだな……」
 と、額を押さえているシリウス。
 その後、話も一段落つくと彼らは部屋に荷物を置きにいった。
 そして5人で夕食を食べに大広間へ下りて行く。
 クリスマス期間中、大広間は大きな丸テーブル一つのみがあり、そこで教師陣と共にみんなで食事をする。残っている生徒も少ないし、どうせならみんなで食卓を囲んだほうが楽しいだろう、とダンブルドアが考えたからだ。
 5人が大広間の扉をくぐると、他の寮生達も食事をとりにやって来ていた。彼らは新たに加わった面子に少々驚いたものの、すぐに笑顔で迎え入れた。中には「暇つぶしに悪戯に来たのか?」などと親しげに声をかけてくる者もいる。
 一番後ろを歩いていたは、テーブルを見渡し、スネイプの顔を見て思わず吹き出した。
 死神を目の前にしたような絶望と驚愕の表情で固まっていた。
 平和な時間の中に突如として天敵が現れたのだから無理もない。
 声を殺して笑うの姿をスネイプは目ざとく見咎めた。鬼をも射殺せそうな視線を向けている。どうやら驚愕は一瞬にして怒りへと変わり、への八つ当たりとして表出したようだ。
 食事の席で揉め事は嫌なので、は慌てて表情を引き締めたが口元が引きつってしまうのを止めることはできなかった。
 やがて、賑やかな夕食が始まった。
 もはや儀式のように肉を奪い合いながら行儀悪く食べるシリウスとに、マクゴナガルは眉をひそめ、ダンブルドアはおおらかにニコニコしながら眺めていた。


 翌朝、悪戯仕掛け人4人は談話室でやや途方に暮れていた。
 が姿を現さないのだ。
「早起きの人だから、もう先に行ってるのかも」
「それはどうかなピーター。は早起きして城の探検をしても必ず戻ってきてリリーと食事に行くんだ。僕達がいるのに一人で行っちゃうとは思えないな。僕達、そんなにと遠い関係かな?」
「うん……そうだねぇ」
 ジェームズの言にピーターは頷いた。
 すると、飲んでいた紅茶のカップを置いてリーマスが席を立つ。
「何にしろ、女子寮には入れないんだし大広間に行かないかい? お腹すいちゃったよ」
「ドライだね……」
 さほど心配していない様子のリーマスに、ピーターが呆然と呟いた。
 大広間のテーブルに、はいなかった。
 先に来ていたハッフルパフ生に聞いても、見ていないと言う。ちなみにそのハッフルパフ生がここに来た時は誰もいなかったらしい。
「まだ寝てるのかな。まさかね」
 さすがにジェームズも不審に思い始めた。
 あのが食事の時間を忘れるだろうか。
 朝食を終えて凍えそうな廊下を歩いて談話室を目指している時、ふと足を止めたシリウスが言った。彼は今までずっと口を閉ざしていた。
「探してくるよ」
 誰を、など聞かなくてもわかる。
「部屋にいるのかもしれないよ」
「それならそれでいい。でも、俺は部屋にはいないと思うから」
 確信を持って言うシリウスの表情はやけに真剣だ。
 ジェームズは昨日のシリウスの言葉を思い出した。
 から闇の魔術の気配がする、と言ったことだ。
「わかった。僕も探そう。2時間後に談話室にいったん戻るってことでいいかな。見つかっても見つからなくても、だ」
「ああ」
「僕も付き合うよ」
「僕も。4人で探したほうが早いし」
 リーマスとピーターも加わり、4人は手分けして捜索にとりかかった。

「どこにいるんだよ……」
 どれくらい寒い廊下を走り回っただろうか。
 シリウスの吐く息は白かったが、体はかなり温まっていた。
 ゆるゆると立ち止まり、行方知れずの友人に苛立ちのため息をつく。
 何となく外に目を向ければ、降り続いた雪で真っ白だった。今は空は青く気持ち良く晴れ渡っている。
 下を向いていた目線を上に向ける。ここから見えるのは天文学の時に使われる観測用テラスのある高い塔だ。
 その塔を見上げたシリウスは、ギョッとした顔になり窓に張り付いて、そこに見えるものに目を凝らした。
 胸壁の上に立っているのは、ではあるまいか?
「何やってんだ、あいつは……!」
 うなるようにもらすと同時にシリウスは走り出す。
 こんな時、すぐに連絡を取り合えるような道具がほしい、と切に願った。
 今までよりも早く走り続け、長い階段も一段飛ばしで駆け上がり、テラスへ出る扉の前に着いた頃にはシリウスは膝に手をつき肩で息をしていた。その膝も小刻みに震えている。
 自分をこんなに疲れさせたヤツにとことん文句を言ってやろう、とシリウスは呼吸を整えて扉に手をかけた。
 開けたとたん、身を切るような凍えた空気が流れ込んでくる。
 一瞬身震いした後、グッと口をへの字に曲げて大股に踏み出した。
 ゆっくりと危なげなく胸壁の上を歩く
 しかし見ているほうは、いつ落ちてしまうかと気が気ではない。
 呑気な友人の姿にますます苛立ち、声をかけようと口を開きかけた時、小さく歌が聞こえてきた。
 聞いたことのないメロディだった。マグルの歌かもしれない、とシリウスは思う。


  朝焼けを見に行った日を 今も覚えてる
  昇る日に目が眩んだ私を 支えてくれた

  あたたかな光とぬくもりに 生まれたての赤子のように
  泣いた

  流星を見に行った夜を 今も思い出す
  連れていかれそうな私を 引き止めてくれた

  ゆるくやわらかな呼び声に 親を見つけた迷子のように
  笑った

  きみは 朝日になり 星になる
  回って巡って いつか必ずわたしに帰る
  祈ってる

  …………


 やさしいメロディラインのささやかな歌だった。
 不意に歌声が途切れる。
 がきょとんとした顔で、じっとシリウスを見つめていた。
 そして、少しだけ首を傾げてかすかな微笑みを浮かべる。
 シリウスは、その微笑に何故か寂しさと虚しさを覚えた。
 よく見慣れた、親しげな笑顔が突然作ったものに見えてしまったから。
 それはずっと前からそうだったのか、つい最近始まったことなのかはわからない。
 胸壁の上に立ったまま、見下ろしてくる人物が誰だかわからなくなるようなショックな出来事だった。
 トンッ、と軽い靴音を立てては飛び降りた。
「どうしたの、こんな寒い中」
 問われたことでシリウスは我に返った。
 そしてその問いの内容にムッとする。
「どうしたのはこっちのセリフだ。朝食にも来ないで、こんなとこで何してたんだ? だいたい、あんなところに立ってたら危ないだろ。足を滑らせて落ちたら確実に死ぬぞ」
「あーはいはい、わかったから。そんな怖い顔して迫ってこないでよ。泣いちゃうよ」
!」
 ふざけたの態度にとうとう声を荒げるシリウス。
 はその声量に反射的に耳をふさいだ。
「心配させてごめん。寒いから中に入ろう」
 逃げるように先に行ってしまったに、シリウスはため息をついて後を追った。
 外とたいして温度の変わらない廊下を、2人はしばらく黙って並んで歩いた。
 生徒のいない廊下はそれだけで冷え冷えする。ゴーストも見かけないし、この廊下には人物画もないから本当に静かなものだ。
 口を開いたのはシリウスのほうだった。
「なあ、さっきの歌……」
「ああ、あれ? あれはマグルの孤児院にいた時に習った歌だよ。大切な人のための歌なんだって。あの孤児院に良い思い出なんかないけど、あの歌だけは好きだったから今でも覚えてるんだ」
 ふうん、と相槌を打ったシリウスは、自分でも何故そんなことを口にしたのかわからないことを言った。
「誰か、大切な人がいなくなったのか?」
 横にある気配がわずかに沈んだことに、シリウスは「当たりか」と確信する。
 は苦笑をこぼす。
「シリウスってふだんは鈍感なくせに、変なところで鋭いよね。嫌な人だ」
「お前な……ずいぶんなセリフじゃないか?」
「そうかもね。でも、そんなふうに見抜かれちゃうと、ね。……夏休みにね、魔法界に来てから何かと気にかけてくれた人が亡くなったんだ。ちょっと、思い出しちゃってね」
 シリウスはちらりとの横顔を見た。
 目の前の廊下ではなく、どこか違う遠くを見ているようだ。
 ほんの少しだけ紅を混ぜたような暗金色の瞳に、シリウスは暗い刃のようなものを見た気がした。
 ちょっと前までリーマスにも見たものだ。
 けれど、性格的にはそれを自分自身に向けることはしないように思えた。
 リーマスは自分で自分を殺していたが、なら……と考えてシリウスは彼女に会ってから感じていた不安の正体に気づいた。
 それを聞いてみようと口を開きかけて、しかし軽々しく踏み込んでいいことなのかと躊躇う。
 リーマスの時もジェームズやピーターとさんざん話し合って、口に出したのだ。一言でも間違えていたら、今のリーマスとの関係は築けなかっただろう。
 そんなシリウスの緊張に気づいたのか、は打って変わって明るい声を出した。
「ねえ、ルーン語の宿題できた? ちょっとわからないところがあってさ、見せてほしいんだけど」
 教えてくれ、ではなく、見せてくれと堂々と言ってくるにシリウスは思わず笑いをもらす。
「丸写しする気か? 絶対ばれるぞ」
「そこらへんは工夫するよ。その代わり、私が終わらせた分でアンタがやってないのがあったら見せてあげる。さっさと片付けて遊ぼうよ」
「いいな、それ。ジェームズ達にも話してみようぜ。問題はピーターだな。どうごまかすかだ」
「難題だね」
 2人は笑い合うと談話室へと駆け出した。
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