二度寝することもなく、のそのそとベッドから這い出てリリーを起こさないように足音を忍ばせて洗面所へ向かう。
顔を洗って髪をとかす──が、そこでは眉を寄せた。
……ヘンな寝癖がついて直らない。
水をつけてみても、一箇所だけピョコンとはねてしまう。
しばらく奮闘してみたものの、ちっとも良い方向へ向かわないのではとうとう諦めた。そのうち直るだろう。重力で。
朝食の後にまた戻ってくるので鞄はそのままに部屋を出て談話室へ下りた。
陰鬱な表情で紅茶を飲んでいるシリウスを見て、ようやくはこの甘い匂いの意味に思い至った。
今日はハロウィーンだ。
甘いものがそれほど得意ではないシリウスは、去年も一昨年もこの匂いにうんざりしていたことをは思い出し、小さく笑う。
「おはよう。すがすがしい朝だね」
「……口の中に熱湯突っ込まれたいか?」
わざとらしいの挨拶に、剣呑な目付きで応じるシリウス。
まだ朝早いため、談話室にはシリウスとしかいない。
はシリウスの横を通り過ぎ、ホットプレートの上で温まっているコーヒーを注ぐ。こぼさないように歩いて、シリウスの向かいに腰掛けた。
だるそうに顔を上げたシリウスは、ピョンとはねたの一房の髪に、とたんに唇を歪めてプッと吹き出した。
今度はがジトッとシリウスを睨む番だ。
「人の顔見て吹き出すなんて、ずいぶん失礼だね。目玉、潰してやろうか?」
「いやだって……見事な寝癖だな」
「うるさいな。ちょっと反抗期なだけだよ」
「なんだそれ」
さっきまでのけだるさも忘れたのか、クスクスと笑うシリウス。
の手は知らずに寝癖を押さえていた。
それからはローブのポケットを漁り、小指ほどのサイズの小瓶をシリウスの前に置いた。
「匂いに負けそうならこれあげるよ」
「なんだ、これ?」
「鼻の穴がなくなる薬」
シリウスは問答無用で小瓶を暖炉に放り投げた。
「ああっ、何するのっ」
が慌てて立ち上がるも、小瓶はすでに燃え盛る炎の中。さすがに手を突っ込めない。
「何するのじゃねぇだろ。お前こそ何をよこしてくれるんだ」
「せっかくシリウスが苦手な匂いから解放されると思ってプレゼントしたのに」
「くだらねぇもん作ってんじゃねぇよ。だいたい何で鼻の穴がなくなる薬なんだよ。もっとマシなものはなかったのか? そんなもの飲んで、みんなにどう説明しろってんだ?」
「……その言い方だと、私がわざわざ鼻の穴がなくなる薬を開発したみたく聞こえるんだけど」
再びソファに腰掛けながら、ため息混じりに言う。
シリウスは「違うのか?」と、片眉だけを器用に上げて問いかける。
「違うよ。別のもの作ってた時にできた副産物だよ」
「何を作ってたんだ?」
「内緒〜」
がニヤリと笑うと、シリウスは逆に顔をしかめた。
どうせ鼻の穴がなくなる薬同様、ろくでもないものだと思っている顔だ。
結局は朝の散歩には出かけず、そのままシリウスとおしゃべりして時間を潰した。
フィルチに仕掛けた悪戯が成功した話、同じ選択科目の古代ルーン文字学のこと、どうでもいい噂話……。尽きることなく話は続いた。そのせいか、シリウスは自身の気分をどん底に沈めていた匂いのことも忘れてしまったようだった。
一番盛り上がったのはクィディッチのことだった。
の代わりとしてメンバー入りしたシリウスは、今ではレギュラーのように溶け込んでいるらしい。チェイサーとしての箒捌きもかなり上達した、とキャプテンに褒められたとか。
鋭く素早いターンのコツをから伝授されたシリウスは、ますますやる気になったようだ。
彼にの代わりの話を持ち出した時の、あまり乗り気ではなかった様子とは正反対だ。
「実のところ、シリウスがあんなふうにプレイできるようになるなんて思ってなかったよ」
たまに練習を見に行った時のの正直な感想である。
シリウスはほろ苦く笑った。
「ヘンな話だけど、俺もそう思う。本人には絶対言いたくないけど、ジェームズのおかげかな。根気強くいろいろ教えてくれるんだ」
「アンタに向上心が見えたからじゃないの?」
負けず嫌いのシリウスのことだ。始めは乗り気ではなくとも、プレイが上手くいかないとなるとムキになって挑戦し続けていたのだろう。
ふと、は今のメンバーを思い出してある考えに至った。
「もしかしたら、来年あたり正式メンバーになってるかもね。……私も練習再開してメンバーから落とされなければ、ジェームズと3人でチェイサーできるかも?」
どちらかと言えば呟きに近い小声で発した言葉は、室内が静かすぎるせいでシリウスにバッチリ聞こえていた。
今の練習で精一杯で先のことなど考えてもいなかったシリウスは、ポカンとした顔でを見ていた。
「だって、ゲイリーは7年生だよ。来年はいないから」
「いや、それはわかってるけど。本気で言ってるのか?」
「もちろん」
「それはいい考えだよ!」
突如、頭上からテンションの高い声が降り注いだ。
朝からこんなに元気な人間はごく限られている。
そしてこの声の主は、ついさっき会話に名前の出た人物──ジェームズだ。
彼はグイグイとシリウスをソファの端へ押しのけて強引にスペースを作ると、よっこらせ、と年寄り臭い声をもらして腰掛けた。
ジェームズは芝居がかった大げさな動きで足を組むと、ににっこり微笑みかけ、それからシリウスにも同じ笑顔を向けた。
その笑顔に気味悪そうに眉をしかめるシリウス。
「今から来年の話なんてするのもバカらしいけど。それに、来年のメンバーをどう決めるかなんてのもまったくわからないけど。でも、僕はチームを外れる気はないし、僕が外されるとも思わない。そうなると、今まで僕とゲイリーと組んで最高のプレイをし続けてきただって外されるわけがない」
どこからその自信が湧き出てくるのか謎だが、ジェームズは自信満々に言う。
「さらにシリウスの最近の上達は目覚しい。みんな満足している。だったら、僕達が組まない理由はないよね」
いかにも簡単なことのように言ってのけるジェームズ。
不思議なのは、彼の勢いで言われると本当にそんなふうに思えてしまえることだ。
相手の都合も何も考えていない傍若無人とも言える発言だが、不快に感じないのはジェームズの人徳かそれとも慣れか。
何にしろ早すぎる話題であることは確かだ。
「それはそうと、お前ずいぶん早起きしたな。眠れなかったのか? ハロウィーンだからってはしゃいでるのか? それともホグズミード行きに興奮してるのか?」
幾分からかうようにジェームズに言うシリウス。
今日はハロウィーンの日だが、同時にホグワーツでは3年生以上がホグズミードに遊びに行くことのできる日でもあった。
さも「ガキだな」と言いたげなシリウスに、ジェームズはちょっとだけ口を尖らせる。
「確かにどっちもすごく楽しみだけど、目が覚めたらキミがいなかったから気分でも悪いのかと思ったんだよ。余計な心配、すみませんねぇ」
「はいはいそーですか、そりゃどーも。昨日の夜、さんざんホグズミードのことで騒いでた口から言われてもなぁ……」
意地悪くクツクツ笑うシリウス。
「シリウス、あんまり言うとかわいそうだよ。それでも心配してくれたんだから」
ジェームズはいじけると厄介なのでがシリウスとたしなめると、シリウスは軽く肩をすくめてみせた。
いつの間にか、談話室に生徒達が下りてきていて賑やかになっていた。
もうすぐすればリーマスとピーターもやって来るだろう。
「ホグズミード……リリーと回れたら最高なんだけど、OKは……くれないだろうなぁ」
いつもめげないジェームズとはいえ、リリーの自身に対する態度が見えていないわけではない。
女子寮のドアを眺めながら、彼は切ない表情でため息をもらす。
こればかりはにもどうにもできないが、一つ、疑問があった。
「ねぇジェームズ。どうしてリリーの前だとあんなふうになっちゃうの?」
「あんなふうって?」
「何ていうか……はっちゃけてるっていうか。こうして私やシリウスといる時とは別人に見えるんだけど。悪戯の件はともかく、もっと自然にしてればリリーだってあんなに身構えないと思うよ」
が首を傾げると、何故かジェームズは困った子を見るような目を寄越してきた。
その目に何となくムッとする。小馬鹿にされたような気がしたのだ。
「はまだまだお子様だなぁ。キミも魂奪われるくらい好きな人ができればわかるよ」
小馬鹿にされたような気がした、のではなく正真正銘小馬鹿にされたことがわかり、ははっきりムッとした。
シリウスをうかがうと、呆れきった顔でため息をついていた。
いったいどちらに対してのため息なのか。
「ところではやっぱりリリーと回るのかな」
「私は行かないよ」
あっさり告げられた答えに、問いかけたジェームズだけでなく、会話を聞いていたシリウスの時間も止まってしまった。
数秒のフリーズの後、2人の叫びが重なった。
あまりの音量に耳をふさぐ。
その中に2人のものとは違う声が混ざっていた気がして首を巡らせると、驚愕に目を見開いたリリーが見えた。
リリーはツカツカとの前にやって来ると、先程のジェームズのようにをソファの端に追いやって割り込んでくる。
明らかに気が立っているリリーに、はヘラリと笑って挨拶をした。
「おはようリリー」
「おはようじゃないわよっ。どういうことなの、ホグズミードに行かないなんて。そんな話、聞いてないわ」
「言ってないもん……イタッ。すみません、今から事情を説明させていただきますっ……イタタタッ」
ギリギリとリリーに耳を引っ張られ、とたんに低姿勢になる。
盛大に鼻から息を吐き出し、腕組みして身構えるリリー。ふざけたことを言ったら張り倒されそうだ。
「えーと、私が住んでるとこの管理人がフィルチ並に性格の曲がったヤツだ、という話はしたよね」
「したわね」
「今のとこ、私の身元引受人はそいつになるんだよね。だから……」
「……まさか」
察しの良いリリーはが最後まで言わなくても事情に気づいてしまった。それは一緒に聞いていたジェームズとシリウスも同じで。
3人の表情はみるみる険しくなっていった。
「ま、そういうわけ。ごめんね」
申し訳なさそうにが謝ると、3人の口から一斉に管理人に対する非難の声が上がった。
「そんな横暴が許されるの!?」
「いくら身元引受人だからって、やりすぎだろう!」
「許せねぇな」
上からリリー、ジェームズ、シリウスだ。
まるで自分のことのように怒る彼らに、は苦笑しながら言った。
「お土産、待ってるよ」
だが、その言葉は彼らのお気に召さなかったようだ。
シリウスが鋭い視線をに向ける。
「お前、それでいいのかよ」
とて腹が立たないわけではない。
「いいわけないでしょ。でも、暴れて追い出されたら困るんだよ。……卒業までは追い出されるわけにはいかないんだ。家無しになっちゃう。……卒業したら、真っ先にお礼に行ってやる……」
だんだん小声になり、同時に内容が物騒になっていく。
ふだんならたしなめるリリーだが、この時ばかりは違った。
彼女は拳を握り締め、力強く言った。
「その時は、私も一緒に行くから」
予想外のセリフに、だけでなくジェームズもシリウスも目を丸くし、それから4人で笑った。
「ああでも、体調が良くないからとかいう理由じゃなくて良かったわ」
「そっちは順調に回復してるよ」
リリーは本当によくの体調に気を配っていた。過保護なほどに。それでもはそれを邪険にすることはなかった。自分を気に掛けてくれる人がいる、というありがたさはこの夏休みで身に染みていたからだ。
「私も残ろうかなぁ……ホグズミードは次回もあるし」
横でポツリとこぼされたセリフに、はパッと顔を向けて猛反対した。
「ダメダメッ。絶対ダメ! リリーは今日はホグズミード! ちゃんと楽しんでこなきゃ損だよ」
「でも、と行こうと楽しみにしてたのに……」
「違う友達と行ってもきっと楽しいよ」
「何なら僕と」
「行きません」
チャンスとばかりに申し出たジェームズの誘いは、無情にも一刀両断にされた。
リリーのガードは予想以上に固い。
ジェームズの隣でシリウスが目をそらして必死に笑いをこらえていた。
も笑いそうになっていたが、ここで笑うとジェームズだけでなくリリーからも非難の声をもらいそうなので、何とか飲み込んで話を続けた。
「さっきも言った通り、お土産買ってきてよ。あと、おもしろい話も」
「……わかった。の分もきっちり楽しんでくるわ。今日は徹夜でしゃべり倒すわよ!」
「あはは、お手柔らかに〜」
笑い合うとリリーを、ジェームズは羨ましそうに見ていた。
「僕も女の子だったらな……」
という早まった呟きにシリウスが慌てていた。
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