14.戻り始めた日常

3年生編第14話  聖マンゴ病院へはポートキーで行くことになった。
 マダム・ポンフリーの診断の結果、ポートキーの移動も大丈夫だろうと言われたからだ。
 はこの結果に安堵した。
 もしもまたホグワーツ特急で移動することになったら、今日中に戻ってくることはできそうもないからだ。
 しかし、付き添いはマクゴナガルだった。
 としては話の弾むハグリッドが良かったのだが、マクゴナガルが寮監なのだから仕方がない。
 早朝、支度を終えたの前に、いつものように隙のない身形をしたマクゴナガルが医務室にやって来た。
「準備はできてますね」
「はい」
 朝の挨拶を省略して交わされる事務的なやり取り。
 マクゴナガルは頷くと、マダム・ポンフリーへ向き直った。
「それでは行って来ます。帰りは夕方になるでしょう」
「ええ、お気をつけて」
 キーとして使われるのは使い古されたヤカンだった。こんなヤカンが沸かされた湯は絶対に使いたくないと思わせるほど使い込まれている。いったいどこから引っ張り出してきたのやら。
 そんな感想を抱きながらヤカンに触れる
 それを見て、マクゴナガルはカウントを取る。
「では、行きますよ──1、2、3!」
 とたんに世界が収縮し、はヘソのあたりがグイグイと強く引っ張られるのを感じた。
 一瞬の窮屈の後に聖マンゴ病院前に到着。
 魔法とは便利なものだ、とは改めて思った。
「ちょっと乱暴だけどね」
「何か言いましたか?」
「いいえ」
「では、行きましょう」
 はマクゴナガルの後をついて院内に入っていった。


 結果から言えば、はもう寮で生活をしても良いということになった。ただし、クィディッチなど激しい運動はまだ禁止とのことだ。
 それでもにとっては万々歳なことだった。
 何と言っても、一分の隙もないマダム・ポンフリーの監視の目から解放されるのだから。
 担当の癒者が言うには、予想以上にの回復は早いのだとか。
「日頃の行いかなー」
 と、調子に乗ったことを言ったら後ろで聞いていたマクゴナガルに冷たく咳払いをされた。
 医務室にあったの私物は部屋に移動してあると言うので、予定通り夕方にホグワーツに戻るなり彼女はグリフィンドール寮まで登った。
 久しぶりに登る階段に胸が弾む。
 仕掛け階段も軽やかにかわし、『太った婦人』の絵の前に立つ。
 『太った婦人』はを見て目を丸くした。
「あら、あなた。いったいどれだけ遅刻したと思ってるの?」
 彼女のちょっとした意地悪にはクスクス笑う。
「医務室のベッドに浮気しちゃった。でも、もう帰れって追い出されたんだ」
「まぁ。あたくし、浮気者はそう簡単に許さなくてよ」
「え〜。でもさ、この言葉を言えば許してくれるんだよね。優しい人だから。──ユニコーンの蹄!」
 『太った婦人』は苦笑して寮への道を開けてくれた。
 礼を言っては開いた穴を這い上がる。
 何ヶ月も入院していたわけでもなく、むしろ夏休み期間のほうが寮を離れていた時間は長いというのに、は談話室に入るなり感慨深く室内を見渡してしまった。
 感動してボーッと立ち尽くしているに最初に声をかけたのは、クィディッチチームで同じポジションのゲイリー・アディントンだった。隣には彼女がいる。
「あれ、じゃないか。もういいのか?」
「うん、今日からこっちで生活してもいいって。チームにはまだ戻れないんだけど」
 言いながら手を振るゲイリーに、も手を振り返して答える。
 ゲイリーは少し残念そうにした。
「そうか。まぁ、無理はいけないよな。シリウスはうまくやってるから、安心していいぞ」
「ポジション取られないようにしないとね」
「ああ、そりゃヤバイな。いいセンスしてるから」
 ニヤリと笑うゲイリー。
 その時、女子寮のドアを開けて会いたかった人が下りてきた。
「リリー!」
 ゲイリーとの会話などスッポリと頭から追い出し、同室の子に両手を振る
 それを見たリリーの緑の目が大きく見開かれる。
 リリーは小走りにやって来て、振り回していたの両手をギュッと握り締めた。
「もういいの? すっかり治ったの?」
 喜びにキラキラ輝くリリーの瞳に、の目も細くなる。
「うーん、まだなんだ。でも、もう寮に戻ってもいいって許可が出たの。またよろしくね」
「こちらこそ。じゃあ次は私がマダム・ポンフリーに代わって見張っておかなきゃね」
「えぇー」
 眉を八の字に下げるの顔に、リリーは思わず吹き出した。
 その後は何やら大騒ぎだった、ということしかの記憶にない。
 ジェームズ、シリウス、ピーターの3人が大声で笑い合いながら談話室に転がり込んできて、を見つけたかと思ったら、
「帰還祝いをやろう!」
 と、唐突に言い出し、あっという間にまた外に飛び出していった。
 ピーターが談話室に残り、パーティのためにテーブルをくっつけていく。
 は何も知らないふりをして聞いた。
「リーマスはどうしたの?」
「あー、えっと、風邪引いちゃったみたいで部屋で寝てるよ」
 やや落ち着きなく答えるピーター。
 は内心で苦笑した。
 彼は本当に嘘がつけない。
 決して悪いことではない。むしろ羨ましささえ覚える。
 は嘘ばかりだから。
 案外、リーマスがいつもピーターの隣にいるのは、そんな憧れがあるからかもしれないとは思った。リーマスもと同じで隠し事や嘘の多い人だから。
 ふと、は思い至った。
 そういえば、リリーも嘘は下手だな、と。
 少ししてジェームズとシリウスが厨房から持ってきたと思われるお菓子類をテーブルに広げ、勝手に音頭を取ってジュースで乾杯。
 この間、は何もしていない。隣のリリーも呆然としていた。
 流されるまま5人でパーティを開いていると、クィディッチのメンバーが加わってきた。
 そうしてパーティの規模が大きくなると、何のパーティかわからない生徒達も参加してきて騒ぎ出す。
 陽気でお祭り好きな寮ならではの現象だ。
 いい加減日付も変わろうかという頃、ようやくお開きとなった。
 片付けをしていたら誰かが言った。
「ところで、いったい何のパーティだったんだい?」
 呑気なグリフィンドール生の疑問に、は思わず吹き出してしまったのだった。


 今となってはあの時絞ったの知恵は全て無駄となってしまったわけだが。
 おかげでいまだにとリーマスが付き合っているという噂が囁かれているが。
 そのせいで、時々廊下で知らない生徒に睨まれたりするが。
 あの時とった行動を後悔はしていない。
 あの状況では、ああするしかなかったのだから。
 暗いトンネルを足早に進みながら、は思った。
 今夜は満月。
 聖マンゴに行く前は、今日も医務室だと思っていたが予想外に帰寮許可が下りたので、こうしてベッドを抜け出してきたというわけだ。
 退院のことはジェームズ伝手にでもリーマスに伝わっているのだろうか。
 伝わっていたとしても、まさかここにいるとは思っていないだろうな、と思うと笑みがこぼれるだった。
 たどり着いた先で古びた木の扉を開ける。蝶番のきしむ音が耳障りに響く。
「ああ、派手にやってるなぁ」
 唸り声に壁を引っかくような音、体当たりでもしているような鈍い音などが2階から聞こえてきた。
 階段を駆け上り、音源のドアを壊さんばかりに開け放つなりは叫んだ。
「眠れねぇだろうが、うるせぇんだよ!」
 頓珍漢な叫びのせいか、いきなりの闖入者への戸惑いのせいか、暴れていた狼の動きがピタリと止まる。
 我を失っている状態の狼人間には、これくらいやってちょうどいい。おとなしく入ったのでは気づいてもらえないどころか、逆に襲われかねない。
 狼なリーマスは夜行性に変化して金色に輝く目を真ん丸にしてを見つめていた。
 間抜けなその顔を、は遠慮なく笑う。
「私が寮に戻ったって聞いてなかった?」
《日曜日のことはあんまり覚えてなくて……》
 しどろもどろに答えるリーマス。
 今日は火曜日だ。月曜日、リーマスは医務室にいた。余裕がなかったのだろう、その時そこにがいないことに気づかなかったのだ。
「寮に戻っていいって言われたんだよ」
 は部屋を移動し、無傷だが古びたベッドに腰掛けた。スプリングが錆び付いているのか、固い。
 リーマスもついてきて、の横に寝そべる。
《え、それじゃ、あの時の手紙事件は……》
「まったくの無駄でした」
 仕方がなかったとはいえ、2人の間に乾いた笑いが生じた。
「こんなに早く解放されるとは思ってなかったんだ」
《でも良かったね。経過が良くて》
「まぁね。クィディッチ復帰はまだだけど」
《だからって、あの時の約束が反古になったわけじゃないからね》
 魔法薬学で組むという話だ。
 思わず目をそらすに、尻尾をパタパタと揺らすリーマス。
 ふと、その機嫌良さそうに揺れていた尻尾が落ちる。
 そしてリーマスは急に真剣な雰囲気になった。
 その気配にの背筋にも思わず力が入る。
《そうだ、。大変なことになったんだ》
「……何?」
《ジェームズ達が満月の夜の僕のために何かしようとしているって話はしたよね》
「うん」
《あの人達、よりによってアニメーガスになるだなんて言い出したんだ》
「……うん? アニメーガス? なんだっけ? どこかで聞いたような……」
 腕組みして首を捻るも、その単語は記憶の片隅を掠るばかりで肝心の部分に届かない。
《2年生の最後のほうの変身術で少しだけやったの、覚えてない?》
 言われて、首を反対側に傾げて思い出そうと努める
 が、すぐに諦めた。
「ダメだ。全然思い出せない」
《諦めるの早いよ。……動物に変身する上級魔法らしいんだけど》
 小さく吹き出してから答えを告げるリーマス。
 直後、頑なだったの記憶の蓋が弾けた。手を叩き、声を上げる。
「思い出した! あの先生、猫になったよね!?」
 頷くリーマス。
 あの日、教室に入ったものの授業開始のチャイムが鳴ってもマクゴナガルは現れず、どこから迷い込んだのか猫が一匹教卓の上に座っていたのだ。猫のクセに妙に姿勢が良かった。
「で、そのアニメーガスがどうして狼人間対策になるわけ?」
 やっと本題に入ると、リーマスが重々しいため息をついた。
《狼人間が攻撃対象とするのは、人間だ。だから、動物になれば噛まれることもなく一緒にいられるはずだって言うんだ。メチャクチャだよ》
 アニメーガスはとても難度の高い魔法で、これができる魔法使いは滅多にいない。しかも、失敗したらけっこう悲惨なことになる、とマクゴナガルが言っていたのをは思い出した。さらに習得者は魔法省に登録申請をしなければならないのだとか。
 おもしろそうな魔法だとは思ったが、リスクと魔法省絡みの面倒臭さからは早々に興味を失ったため、記憶から消えかかっていたのだ。
 そんな魔法に彼らが手を出すという。
「リーマスは反対なんだ」
《当たり前だよ。すごく危険な魔法だって言うじゃないか。万が一があったらどうする? そんなことしてくれなくても、僕は今のままで充分なのに》
 前足でシーツを引っかきながら訴えるリーマス。
 シーツが裂けた。
 は、リーマスの気持ちと、それからジェームズ達の気持ちを考えた。
 人の気持ちを考えるのはどちらかといえば不得手なだが、この件ばかりはわかった。
 その上で、どっちの肩を持つかと言えば……。
「危険な魔法だから反対なの?」
《そうだよ》
「だったら、3人だけに任せておかないでリーマスも一緒に勉強して、少しでも成功率が上がるように協力すればいいよ」
《何言ってるの!?》
 リーマスは勢い良く立ち上がる。
 そしての肩を押してベッドに押さえつけ、まくし立てる。
《何てことを言うんだ。キミは彼らにもしものことがあってもいいって言うの? そんな最悪の事態になったら、僕はもう彼らに顔向けできないよ! 僕は、僕はこんなことであの掛け替えのない人達を……っ!》
「わかった、わかったからちょっとどいてっ。重い! 肩が壊れる!」
 いくらの体が人より頑丈にできていても、自分より大きい生き物に力を込めて押さえつけられればたまらない。
 の訴えに我に返ったリーマスは、ゴメンと小さく呟いてもとの位置に戻った。
 肩を揉み解しながら座り直す
 しばらくどちらからも出る言葉はなかった。
 小さな呼吸音だけが2人分繰り返される。
 やがて、低くゆっくりした口調でが沈黙を破った。
「ねぇ、リーマス。ジェームズ達だって軽い気持ちでアニメーガスになるなんて言ったとは思えないよ。皆、魔法界育ちなんだから、危険な魔法の怖さはよく知ってるはずだよ。特にシリウスはさ。リーマスに教えるまでにたくさん3人で話し合ったと思うんだ」
 リーマスのほうを見てはいないので、聞いているのかいないのかにはわからなかったが、彼女はかまわず話を続けた。
「言ったからには、リーマスが何を言ってもあいつらはがんばると思うよ。その時に、リーマスは知らん顔してていいの? 見ていないところで失敗して、とんでもないことになっちゃったりして、それでいいの? 掛け替えのない友達だって言うなら、甘えてもいいんじゃない? 甘えて、一緒に考えて、成功させるんだよ。手放したくない友達なら、握り潰すくらいの覚悟で大事にしなくちゃ」
 いなくなってからでは遅いのだ、という言葉をはかろうじて飲み込んだ。
 あの人がいなくなってしまったのは、まったくもっての予想外の出来事だったが油断していたと言えば確かにそうだったのだ。やり場のない後悔はなかなか消えない。
 自分ができなかったことを隣の少年に求めるのは少し違うかもしれない、と思ったがそれでも求めずにはいられなかった。
 彼は何と答えるだろうか。
 呆れるだろうか、怒るだろうか、軽蔑するだろうか。
 しかし、返ってきたのはかすかな笑い声だった。
《クックク……握り潰してどうするのさ……。もぅ、ジェームズもも言いたい放題なんだから。あんまり自分勝手すぎて、丸め込まれそうじゃないか》
「丸め込まれてよ」
 押し殺した笑い声に安心して、はやっとリーマスの顔を見ることができた。
 笑いの波がおさまったリーマスは、う〜んと唸って前足の上に顎を乗せる。
 は彼が結論を出すのを待った。
 しばらく、リーマスのウンウン唸る声が続く。
《──ダメだ。今すぐ決心なんかつかないよ》
 前足に乗せていた顎をより一層沈めるリーマス。
 は苦笑した。
「……やさしいね」
《いや……臆病で優柔不断なだけだよ》
 自分の決断力のなさにうなだれるリーマスの頭を、は黙ってそっと撫でた。
《でもいつまでもグズッてたら、あの3人はどんどん研究を進めるんだよね……》
「そうだろうね。ねぇ、魔法省への申請はどうするつもりなのかな」
 の疑問に、リーマスはやや投げやりな短い笑い声をもらした。
《そんなことしないってさ。魔法省に申し出るってことは、僕のことが公になる可能性が大きいし、学校も許さないだろうから全部秘密でやるんだって。ほんっと、あの人達は……》
 僕にはもったいないよ。
 吐息のようにそんな言葉が続いた。
 呆れたような言葉とは反対に、リーマスの目はそれはそれは嬉しそうに細められていた。
《僕は、何て果報者なんだろう……》
 幸せそうに呟き、まどろむように目を閉じるリーマス。
 狼の姿で表情など読みにくいが、彼の心が感謝でいっぱいになっていることはにも伝わってきた。
「……あれ? リーマス?」
 いつまでたっても何も言わない彼に、はその顔を覗き込む。
 リーマスは眠ってしまっていた。
 呑気な寝息に、しょうがないなぁ、と息をついて小さく笑う
 そんなリーマスの横にもゴロンと転がり、目を閉じる。
 まとまりのない思考の渦は、やがてアニメーガスのことに収斂されていった。
 いったいどんな動物になるつもりなのか。
 は、あの3人ならやり遂げてしまうのではないか、と半ば確信を持っていた。
 そして、自分だったら何になりたいかな、と考える。
 ……ドラゴンもありなのだろうか?
 ドラゴンになって、狼のリーマスと何らかの動物になったジェームズ、シリウス、ピーターとダイアゴン横丁を練り歩くことを想像しているうちに、いつしかそれは夢になって溶けていった。
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