星の軌道計算の方法や色の変化から推測するその星の状態などの説明を受けた後、実際に練習問題を解いている時のことだ。
突然、は椅子を蹴立てて立ち上がり、天井に向かって吼えた。
「私としたことがーっ!」
静かだった教室が一瞬にしてざわつき、生徒達の視線がに集まる。
隣のリリーは目も口も真ん丸にしてを見上げている。
教授とて例外ではない。
いまだかつて、こんな生徒はいなかったのだから。
しかし、さすが長年教授職に就いてきただけはある。教授はずれてもいない眼鏡の位置を正すことで気を取り直し、天井を睨みつけてブツブツ言っている生徒を刺激しないよう、声をやわらかくして問いかけた。
「えー、ミス・? 何かあったのですか」
その声にはハッと我に返った。そして今が何の時間かを思い出すと慌てて教授に謝罪する。
「す、すみません。その……えっと、何でもないです。計算の続きをします」
「……まあいいでしょう。以後、気をつけるように」
「はい」
はひっくり返った椅子を戻し、席に着くと今度は授業の終わりまでおとなしく過ごしたのだった。
教室を出るなり足早に歩き出すを、リリーが慌てて引き止める。
「いったいどうしたの?」
別の考えで頭がいっぱいだったは、問われてうろたえてしまった。
モゴモゴとはっきりしないに、リリーは眉をひそめる。
「何か心配事? 私で力になれるかな」
「えっと……心配事じゃなくて、その、そう、忘れてたの。すっかり。次の日曜日に聖マンゴに検査に行かなくちゃならなくてね。チームのみんなには練習を見に行って作戦会議に参加するって言っちゃってたから。急にそれを思い出しちゃってさ」
困ったね、と頭をかいて笑う。
リリーは疑わしそうだ。
それも当たり前で。
ふだんのなら、そんなことでいちいち叫んだりはしないからだ。
しばらくジトッとを見つめていたリリーだったが、やがて息をついてその主張を認めた。
「具合が悪いとかじゃないならいいけど。あんまり奇声を上げるのは感心しないわ。一緒にいて恥ずかしいったら」
「あ、うん。ごめん。私も恥ずかしかったから」
この話はここで終わりにし、二人は大広間へ昼食に向かうことにした。
午後の最初の授業は珍しく全員そろっての魔法生物飼育学だった。悪戯仕掛け人嫌いのリリーは、当然彼らとはずっと離れた場所で授業を受ける。
今日は外での授業で、石を食べるミミズのような虫のスケッチと行動観察記録を書くのが課題だった。
はこのスケッチというのがとことん苦手で、いつも苦労して描き上げていた。しかも毎回リリーに笑われる。
似ても似つかないならともかく、中途半端に似ていて、特徴が大げさすぎるほどに強調されているのがおもしろいらしいが、は何を描いてもそうなってしまうのでどうしようもない。
けれど今日はスケッチ後のリリーの仕打ちを嘆くよりも気になることがあった。
天文学の授業で星の軌道計算をしていて思い出したのだ。
もうじき満月ではないか!
自分のことで頭がいっぱいですっかり忘れていたのだ。
リーマスとの大切な時間だというのに。
そんな自身の薄情さに思わず叫んでしまったというわけだったのだ。
しかも、今回はその大切な時間を共に過ごせない。
あのマダム・ポンフリーの監視からはどうしても抜け出せないし、それ以外にも理由がある。
うまく抜け出せたとしても、もしも夜中にのベッドに様子を見にきたら?
そこで眠っているはずの人物がいなくなっていたら、きっと大騒ぎになるに違いない。そして真相が明らかになってしまったら、だけでなくリーマスにも迷惑がかかるのだ。下手したら考えたくもないことになるかもしれない。
リーマスにはつらい一夜となるが、最悪の事態になるよりはずっといいだろう。
これらのことをリーマスに伝えておきたいのだが、彼らはたいてい4人で行動しているし、自身もリリーと一緒にいることが多いので、なかなか2人で話し合う機会がない。
ふくろう便の利用も考えたが、横から誰かに中身を見られたらまずい。
またしても叫びそうになるのを、はどうにかこらえるのだった。
これだけグスグズ考え事をしていても、悲しいことにのスケッチの出来は変わりなかった。
「鉄をも噛み砕きそうな歯ね」
スケッチを覗き込んできたリリーが率直な感想を述べる。
リリーのスケッチは、と見やるととてもうまくまとまっていた。
見たままを描くのって難しい……と、はつくづく思うのだった。
「それにしてもさ、石を消化して栄養にしちゃうコイツはどういう体の仕組みなんだろうね。そんな強力な溶解液、何かに使えそうだと思わない?」
「確かに使えそうだけど、このミミズみたいな体からその溶解液だけを取り出す方法を見つけなくちゃダメね。それに下手に手を出したら指を食いちぎられるって先生が言ってたでしょ」
テキパキと問題点を挙げるリリーに、は苦笑が浮かんでしまう。
打てば響くような、とはきっと彼女のことを言うのだろう、と。
時間いっぱいまで行動観察記録を付け、それを提出してその時間は終わった。
城への帰り道、リリーは目をキラキラさせて言った。
「森にはユニコーンがいるんですってね。いつか授業で見せてもらえたらいいな」
ユニコーンのたてがみや尻尾は、よく杖の芯として使われている。他に、角は薬になったり、血は滋養強壮剤に使われたり。それらはいずれもユニコーン自身が提供してくれるもののみ利用しているのだとか。たとえ死体でも人間が勝手に取ることは許されないらしい。
何よりも、その美しさは人を魅了してやまないのだとか。
そんな想像も付かない美しい生き物は、ぜひ一度拝んでおきたいとは思った。
同意するに、ふとリリーがいたずらっぽく笑う。
「でも、は絶対にユニコーンをスケッチしちゃダメよ」
次の時間は占い学だったのではこれで今日の授業は終わりとなる。彼女以外のみんなは教室へ移動していった。
ピーターの「簡単そうだから」発言の効果か、4人組みはそろってこの科目を選択したようだ。リリーは興味を持って選んだようだが。
特に差し迫ったレポートもないので、これからどうしようかは迷ったが、すぐに日曜日はたぶん一日病院に拘束されるだろうと思い、早めに片付けておこうと決めた。
のんびりと医務室へ向かっていた足を図書館へと方向転換させる。
いつもの奥のテーブルに、今日は誰もいなかった。
あの2人も占い学を取っていたのか、とは思ったがすぐにそれはないだろう、と思い直した。
本人に言うには失礼だから言わないが、あまりにも似合わなさすぎる。
「いや、クライブなら取るかも? スネイプは絶対取らないな、ウン」
彼らが真剣な顔と怪しい手つきで水晶玉を覗き込んでいる姿など、胡散臭いにもほどがあるだろう。それを言ったらジェームズ達も当てはまるのだが。
ダイアゴン横丁で辻占いをする彼らを想像し、は小さく吹き出した。
それからは終業のチャイムが鳴るまでレポート作成に没頭するのだった。
気づいた時にはもう窓の向こうは真っ暗闇だった。
やりすぎた! と、は慌てて勉強道具を片付け始める。占い学の時間など、とうに終わっている。
授業数の多いは、いつもリリーが教室まで迎えに来てくれる。まだ体調が完全ではない彼女を気遣っているということもあるだろうが、他にも一緒に宿題をしたりする。面倒なレポート作成も、2人でやれば案外すんなり終わったりするものだ。
だから、たまにはこっちから迎えに行こうと思っていたのだが。
使い終わった本は棚に戻し、借りる本は手続きをしにカウンターまで行かなくては、と荷物をまとめては席を立つ。そしていくつかの背の高い本棚を過ぎた時、どこかからリリーの声がした。医務室にがいなかったのでここに探しに来たのだろう。
彼女は誰かとしゃべっているらしく、本棚の向こうから声をひそめた会話が漏れてきた。とはいえ、声は小さすぎて何を言っているのかはわからなかった。
この本棚の向こうか、と見当をつけたは、本人であることを確かめるため本棚にぴったりと耳をくっつける。
やはり会話の内容は不明だが、相手が男子であることはわかった。しかも、リリーは何だか困っている様子だ。
スリザリンの連中に絡まれているんだろうか、との中に不安が生まれる。マグル出身だという理由だけで絡んでくる頭のおかしな連中は、いまだにいるのだ。
は小走りに本棚を回り込んだ。
棚の脇から顔を出した時、ちょうどその相手は背を向けて去っていくところだった。残念ながらどこの寮の人かはわからなかった。
リリーは黙ってその背を見送っている。
その場の雰囲気から、何か不愉快なことがあったわけではなさそうだ、とは察して安堵した。
はその背に歩み寄り、そっと声をかけた。
「リリー……」
ピクッと肩をふるわせて振り向く友人。
その顔にあるのは、いっぱいの困惑。
はキュッと眉を寄せた。やはり何かあったのだろうか。
「何か、酷いことを言われた?」
しかしそれはまったくの誤解で。
リリーは一瞬きょとんとした後、両手を振って否定する。
「違う、違うの。そうじゃなくて……」
「そうじゃなくて?」
「その、えっと……」
ポリポリとこめかみのあたりをかいて言いよどむリリー。
さらに落ち着きなく視線をさまよわせた後、恥ずかしそうに目を落として小声で告げた。
「……告白、されちゃったの」
「──はぁ?」
何を今さら、とは思った。
リリーが男の子にモテるのは今に始まったことではない。告白だって何度もされているのを知っている。そのたびにその場でそれらを断り続けてきたことも。
それなのに、今回は恥ずかしそう?
まさか、との脳裏に一つの答えが浮かぶ。
「リリー、まさか今の人のこと──」
話の続きは空き教室で行われた。
教室の窓際の方に、2人は向かい合う形で腰掛けた。
リリーは何度か深呼吸した後にゆっくり話し出す。
「さっきの人は、ほら、夏休みの列車の中で話した人よ」
言われて記憶を探る。
「ああ、ハッフルパフの上級生」
「うん、その人」
「確かフリットウィック先生の呪文クラブに入ってて、かっこいい人だったっけ?」
「……そうよ。そんなとこまでよく覚えてたわね」
「何となく思い出した。それで、その人に告白されちゃったんだ」
リリーは黙って頷く。どことなく恥ずかしそうだ。
やはりこれは、とは音を立てずに唾を飲む。
「それで、受けるの?」
リリーは「うん」とも「いいえ」とも言わなかった。
その表情は「わからない」と言っている。
はリリーが何を言うかじっと待った。
別に、としてはリリーが誰と付き合おうと口を出すつもりはないのだ。よほど不審な人でなければ。
では、何が気になっているのかというと、ジェームズの存在だ。
今までジェームズの応援などしたこともないが、実に勝手ながらリリーが自分の知らない人とお付き合いを始めるのかという時になって、何故か嫌だと思ってしまったのだ。それなら、もよく知っている人物の方が良い、と。
本当に身勝手な考えで、そんな考えを持ってしまった自身には嫌気が差した。
リリーは机の上で組んでいた手から視線を上げてと目を合わせた。
「憧れるものはあったの。でも、あの人とどうこうなろうなんて考えたこともなくて。まさか、向こうが私を知っているなんて思いもしなかった。……それくらい、遠い人だったの。いろんな人から好かれている人だから」
「……うん」
「嬉しい、と思う気持ちも確かにあるの。現に、好きって言われてこんなにドキドキしてる。でも、不安もある」
「不安?」
リリーはしっかり頷く。
「私があの人と付き合っているっていうヴィジョンが浮かばないの」
なんだ。
そのセリフには安堵した。知らずに入っていた肩の力が抜けていく。
リリーは迷っているようだが、もう答えは出ているではないか。
は上がる口角を我慢せずに任せて言った。
「未来が見えないんだったら、付き合えないよねぇ。残念ながら想いの質が違ったってことだね」
「……何でそんなに嬉しそうなの?」
リリーは怪訝な顔付きでを見つめるが、はニコニコが止まらない。
「私、嬉しそう? そうかな」
そうは言っても、表情は裏切っている。
「でもリリーはきっとこれから今以上にモテ期だね。シリウス並かな。大変だねぇ」
のニコニコはいつの間にかニヤニヤに変わっていた。
リリーは眉間にシワを寄せて唇を歪める。
「他人事だと思って!」
「他人事だもん」
ガタンッと椅子を蹴って立ったリリーがをぶつ真似をすると、は大げさに身を引いた。
も立ち上がると、なだめるようにリリーの肩にポンと手を置いて言った。
「ま、がんばって」
この安堵の正体が何なのか、はまだよくわかっていない。
リリーは鼻息も荒く食ってかかる。
「が同じ状況になった時には仕返ししてやる」
「ムリムリ。そんなことありえないよ」
「将来どうなるかなんてわからないじゃない」
言い合いながら扉へ向かう。
「うーん。でも、私にはないと思うな」
「じゃあ逆に、に好きな人ができて悩んでもからかい倒してやるんだから」
「私に好きな人?」
扉を開けようと手をかけたところでは素っ頓狂な声を出して鸚鵡返しに聞き返した。が、直後に盛大に笑い出す。
まさか笑い飛ばされるとは思わず、目を丸くするリリー。
「そこ、笑うとこ?」
やや呆れのこもったリリーの問いに、は咳払いを繰り返して無理矢理笑いの発作を引っ込めた。
「ごめん。ちょっと突拍子もないことだったから、つい」
例えば、シリウスに告白してくる女の子達のように。
自分があんなふうに誰か一人に心を奪われてしまうなど、には想像もつかなかった。
恋というのは、本当に他人事だった。
だからいまだに時々に「好き」だとか「付き合おう」だとか言ってくるクライブの気持ちがわからない。
もっとも、これはの知らないことだが、クライブの場合は崇拝の念も混じっているので、純粋に恋と言えるのかどうかは微妙なところだが。
恋や愛を信じていないわけではない。人間同士の繋がりを軽く見ているわけでもない。
マグルの世界の裏町での仲間達は、本当に大切だったし今でもにとっては掛け替えのない人達だ。たとえ会えなくても。それはそのままホグワーツで出会ったリリー達にも当てはまる。
ただ、恋にはならないだけだ。
先のことなどわからない。
けれど今はこれでいい、とは思った。
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