マクゴナガルは去年と同じような脅しに近い注意事項を告げると、簡単に1年生時の復習をした。それから生徒一人一人に箱の中から取り出したコガネムシを置き、ボタンに変えろと言う。先生曰く、1年生の内容を理解していれば簡単だそうだ。
机の上のコガネムシを前に、は生物を無機物に変える理論を思い出していた。
──大丈夫。理論はバッチリだ。
あとは、杖を振った結果が良ければ言うことはない。
はそこで去年の惨憺たる有様を思い出してしまった。
変身術だけではない。呪文学、闇の魔術に対する防衛術など杖を使う科目全てで、思い出したくもない結果を出していたのだ。
知らず、渋面になる。
特訓の成果があって、後半では杖の扱いも上達していたが、約二ヶ月の夏休みで実践の機会がなかった今、うまくできるという自信はなかった。
それでもやらないわけにはいかないので、は頭の中で何度も理論を反芻しながら杖を構えた。
気のせいか、マクゴナガルの視線を感じる。
があまりにいろんなことをやらかすものだから、彼女が杖を振るう時はたいてい監視の目が送られていたのだ。
「えいっ」
サッと杖を振ると、目の前のコガネムシはグニャグニャと輪郭を歪めていき、しだいに円形に平たくなっていった。
そして。
「おお〜、これはまた……」
どこか遠い目をしてコガネムシだったものを見つめる。
隣で同じように杖を振っていたリリーが覗き込んでくる。何とも言えない表情だ。
のかけた魔法は中途半端に成功していた。
コガネムシは白いボタンになったのだが、縁から足の先が6本飛び出ていてピクピクと動いている。
正直、気持ちが悪い。
「やり直しやり直しっ」
は元のコガネムシに戻すと、もう一度集中する。
『コガネムシをボタンに変えよう』第2回目。
足は引っ込んだが、ただでさえあるのかないのかわからない短い触角が残っていた。
理論は完璧なはずなのに何で、と納得できない気持ちでリリーのほうを窺うと、木目も鮮やかなボタンが数個できあがっていた。
リリーに出来て私にできないわけがない、と闘志を燃やしたは三度目の正直、と気合たっぷりに杖を振るう。
現れた結果には表情を輝かせると、隣の友人を見やった。彼女ものコガネムシに注目していて、机の上の見事な白いボタンを見てニッコリした。
ニッコリしながらボタンをひょいと裏返す。
の顎と肩が落ちた。
ボタンの裏側には、コガネムシの腹がしっかり残っているではないか。しかもかすかに息づいている。ホラーだ。
「あーもぅ、やってられん」
は杖を机の上に放り出すと、不貞腐れて椅子に座る姿勢を崩した。そして呪いのボタンと呼んでもいいような有様のボタンに、イライラと舌打ちする。
幼子のような拗ね方にリリーはクスクスと笑った。
そんな友人にさらに心を捻くれさせて、は周囲の同寮生らを見回した。
だいたい半数くらいが成功しているようだ。
悪戯仕掛け人はというと、ピーター以外は皆うまくいったとみえる。
「今年もピーターと特訓かな……」
去年はシリウスが指導してくれた時があり、ピーターと2人してビシビシ言われたことをは思い出す。
「夏休み前まではうまくいってたのに」
「すぐに勘を取り戻すわよ」
唇を尖らすをリリーが宥める。
どちらにしろ、もうのやる気はゼロになってしまっていた。
しかし、そんなことを許さないのがマクゴナガルである。
彼女はサボっているを目ざとく見つけると、ツカツカと歩み寄ってきて鋭く名前を呼んだ。
「ミス・、ボタンに変身させることはできたのですか?」
「……このボタンは呪われました。触ると漏れなくコガネムシの腹の呪いが……イタッ」
「バカなことを言ってないで、もう一度やってごらんなさい」
「……むぅ」
小突かれた後頭部をさすりながらは投げ出していた杖をもう一度手に取った。
そしてボタンをコガネムシに戻し、ゼロだったやる気をどうにか立て直す。
隣ではリリーが緊張気味に見守っている。
別にリリーがマクゴナガルに見られているいるわけでもないのに、と内心でおかしく思いながらは杖を振った。
とたん、リリーの悲鳴が教室中に響き渡る。
は杖を振った姿勢のまま固まり、マクゴナガルも片頬を引きつらせていた。
なんだなんだ、と物見高いグリフィンドール生が周りに集まってくるのはあっという間だった。
の机の上のコガネムシだったものを見た彼らの口からは、悲鳴やら笑い声やらが溢れ出し、教室は一気にうるさくなった。
「お前……何に変身させたかったんだ?」
喧騒の中、頭の上から呆れ度200%の声を落としてきたのはシリウスだ。
振り返ったは乾いた笑いを浮かべるしかない。
ちょっと前までコガネムシだったもの。
それは今、未知の虫へと変貌していた。
体中から足を生やした、ウニのような姿となって。
「……ミス・」
やがて、静かにマクゴナガルが硬質な声を発した。
明らかに機嫌を損ねている。
反射的にの背筋に力が入る。
「……はい」
「居残りを命じます」
「………………はい」
たっぷりの間の後、は消え入りそうな声で返事をしたのだった。
居残り授業は、マクゴナガルと一対一で変身術が何たるかを叩き込まれるという、とても息苦しいものだった。
は真剣に聞いている姿勢を見せながら、心の中では早く終われと叫んでいた。
その後、コガネムシをボタンに変えるために何回か杖を振り、ようやく成功させて居残りから解放された時は2時間程が過ぎていた。
夕食直前である。
マクゴナガルと別れた後、疲れてぽてぽてと廊下を歩くが実際はグリフィンドール寮へ戻ろうかこのまま夕食に大広間へ出ようか迷っていた。
「やっぱ、待ってるかなぁ」
律儀なリリーのことだ。夕食の時間が来たからといって、居残りでまだ帰らない友人を置いて食べに出てしまうとは考えにくい。きっとギリギリまで待っているだろう。
戻ろう、とはグリフィンドール寮の方向へ体を向け、少し早足に歩き出す。
それにしても、と歩くスピードはそのままには考える。
変身術の教室を出て少し歩いた頃から、誰かの視線を感じていた。
スリザリンのあの女が居残りを笑いに来たのかと思ったが、視線の中に敵意や悪意の類を感じなかったから、彼女ではないようだとわかった。
ではいったい、このまとわりつくような視線は何だ、とはわずかに不快に感じ目元を険しくさせる。
目だけで周囲を窺ってみるが、夕食に向かう生徒が多すぎて視線の出所がわからない。
は得体の知れない視線から逃げるようにしていくつもの階段を駆け上り、グリフィンドール寮談話室への入り口を守る『太った婦人』の前に立つと、素早く合言葉を告げて中へ滑り込んだ。
「、終わったの? ……どうしたの、息を切らせて」
駆け寄ってきたリリーが、何故か息切れしているを不審に思い、首を傾げる。
はそれにどう答えたらいいものか束の間悩んだが、一番しっくりくる返事はこれしかない、と口に出す。
「……追っ手が」
「追っ手? いったい何したの?」
「もしかしてフィルチかい? もぅ、何かやるんなら僕達にも言ってくれればいいのに」
「あなた達と一緒にしないでちょうだい、ポッター!」
「冗談だよリリー。でも心配だよ。追っ手の1人や2人、ならどうってことないだろうけど、リリーまで巻き込まれたらと思うと一瞬でも目を離していたくないよ」
「気安く名前を呼ばないで。それに今の発言はに失礼よ。あなたって本当に薄情ね」
また始まった、とは苦笑する。
邪険にされるとわかっていて寄って来るジェームズもジェームズだが、それにいちいち目くじら立てて反応するリリーもリリーだ。
やっぱりこの2人は仲が良いのだろう、とは改めて思った。
そうとなれば、彼らの不毛な言い争いになど巻き込まれたくはない。
というわけで、は毎度のことに呆れ顔のシリウス、リーマス、ピーターを見やり、目で扉を示した。
3人は黙って頷くと、足音を殺してジェームズとリリーから離れていく。もちろんも。
しかし扉の前に着いた時に4人は気付かれてしまった。
「、置いていかないでよ。それに、そんな人達と一緒にいちゃダメ」
聞き捨てならないセリフに剣呑な目でシリウスが振り返る。
鋭い彼の目にまったくひるむ様子も見せず、さらにリリーは続けた。
「その追っ手とかいうの、ポッター達関連かもしれないわよ。仲間と思われる前に縁を切るべきよ。さ、行きましょう。──あなた達は少し遅れて来なさいね!」
言うだけ言ってリリーはの手を掴むと、引きずるようにして談話室から踏み出した。
閉まっていく扉の隙間から呆っ気にとられた悪戯仕掛け人の姿が見えた。
気遣わしげに背後を振り返るだったが、リリーがぐいぐいと手を引っ張るせいで歩きにくく、つまずきそうになったため前を向いた。
「そんなに邪険にしなくてもいいのに。いくらジェームズでも泣いちゃうかもよ」
「あの男が泣こうがわめこうが私には関係ないわ」
吐き捨てるように言うリリーに、さすがにもおかしいなと感じた。
夏休み中に皆で会った時はもう少しやわらかい態度だったはずだ。あの後、何かがあったのだろうか。
「何か、あったの?」
リリーの顔を覗き込むように少し前に踏み出すと、リリーはの視線から逃れるようにそっぽを向く。
なおもが目線を合わせようと身を乗り出すと、
「もう、そんなにじろじろ見ないで」
と、押し戻されてしまった。
リリーは観念したようにため息をつくと、思い出すのも嫌だというようにポツポツと話し出した。
「皆で会ったあの後よ。その前も一週間に一回は手紙が来てたけど、あの後は3日とあけずに送られてくるのよ。それも、頭のネジが緩んでそうな内容ばっかり! 嫌がらせと思っていいわね、あれは。スネイプみたく直接何かされるのも嫌だけど、私へのあれは精神攻撃だわ」
マシンガンのように飛び出てくる言葉に、は呆れて遠い目になっていた。
ジェームズは嬉しかったのだろう。
1年生の時に深い溝が出来てしまい気まずくなってしまったのに、夏休みに会った時にはお土産をもらえたのだから。
嫌われる前の状態に戻れるかもしれないと、期待したのだろう。
そして、やりすぎてしまった。
はため息をついて眉間を揉んだ。
「シリウスも直情的だと思ってたけど、ジェームズもそうとうなもんだね」
「どっかおかしいのよ、あいつは」
「思い込んだら一直線……、覗いてるのはそこかぁ!」
突如叫んで走り出すに、リリーはビクッと身を震わせる。
寮を出てしばらくしたら、はまたあの視線を感じていた。そして、ようやく出所を掴んだのだ。
通り過ぎた岐路まで一気に駆け戻り、ちらりと見えた人影に掴みかかる。
「文句があるなら正面から……」
の怒鳴り声は後半部分がしぼんだ。
思い切り胸倉を掴み、睨みをきかせた先にあったのは、1年生と思われる小柄な女子生徒だった。
いきなり掴み上げられ怒鳴られ、彼女は涙目でを見上げている。
追いついたリリーが声をかけてきた。
「、何やって……え、ちょっとイジメ?」
「違うよっ」
間髪入れずに否定しただが、リリーにあっさり返される。
「じゃあその手を放してあげなさいよ。泣きそうじゃない。どう見たってイジメよ」
はそっと手を放した。しかし、少女への警戒を解いたわけではない。ねっとりと見られ続けていたことは事実なのだから。
警戒心も露わに見つめるの頭を小突くリリー。
「睨まないの」
「睨んでない。……で、何か用?」
睨んでないと言いつつ、冷たく暗い色合いの金色の目で見下ろされればきっと誰だって怖い。
ただでさえの目付きは良いとは言えないのだから。
少女は茶色の瞳を揺らして答えた。
「あの、お礼を言おうと思って……」
「お礼? お礼参りにでも来たって言うなら……イタタタッ」
「そんなわけないでしょ、バカ!」
いつまでも態度の悪いに対し、とうとう苛立ったリリーが耳を引っ張った。
2人のやり取りに少女はおろおろしながらも、説明を続ける。
「列車でトランクを引き上げてくれたでしょう。あの時、お礼を言いそびれてしまったから」
ようやく解放された耳をさすりながら、は何のことやらと記憶を探った。
ホグワーツ特急でこの子のトランクを引き上げた?
はまじまじと少女を上から下まで眺める。
じろじろ見られた少女は、恐怖からか羞恥からか一歩後ずさる。
やがてはポンと手を打って声を上げた。
「ああ、あの時の! ごめん、早く思い出せば良かったね」
とたんに険の消えたに、少女はホッとして体の力を抜く。ずいぶん肩に力がこもっていたようだ。
さっきまでの警戒心は何だったのかと言いたくなるほど友好的な態度になったは、にこにこと少女に話しかける。
「レイブンクローになったんだ、おめでとう」
「いえ。先輩と同じ寮じゃなかったのは、ちょっと残念かな……なんて」
自分で言って照れたのか少し赤くなって俯く少女と、慣れない呼ばれ方に戸惑う。
「せ、先輩なんて呼ばなくていいよ。でいいよ。それにほら、良かったらグリフィンドール寮に遊びにくればいいし。ねっ、リリー」
いきなり話を振られ、びっくりしつつも首肯するリリー。
それは少女のほうも同じで。
うちの寮に遊びに来いと言われてホイホイと行っていいものかと迷う。そんなに簡単なら何のための合言葉なのかと。
その戸惑いが通じたのか、は慌てて付け加えた。
「あ、もちろんこっちに来る時は私がついてないと入れないね」
結局、他寮生が自寮に来ることは問題ではないのか、と少女は思ったが黙っていることにした。
それからリリーとは夕食に行く途中だったことを思い出し、少女も共に大広間へ向かうことにした。
道すがら、少女の名がアデル・リンゼイであることを知る。旧家・名家ではないが純血の家系だそうだ。だが両親とも血筋にはこだわらないらしく、アデルの将来についても何も言ってこないらしい。
純血にもいろいろいることはジェームズやシリウスを見ていればわかるし、スリザリンではなくても純血家出身者はいる。
大広間に近づくにつれ、香ばしい匂いが漂ってきた。反射的にお腹が鳴りそうな匂いだ。
少し重い扉を開けて中に入ると、席は半分くらい埋まっていた。
別れ際、アデルが期待するような遠慮するような目でに聞いた。
「また、お話してくれますか?」
は特に何も考えずに頷く。
「もちろん。敬語もいらないよ。それじゃあ」
グリフィンドール席に向かいながら、リリーは考えていた。もしやと思うことがある。
リリーは隣を歩く友人を頭のてっぺんからブーツのつま先まで眺め、最後に全体を視野に収めた。
リリーより数センチ高い背丈はジェームズと同じくらい。まだそれほど男女の身長差が出る年齢ではないが、平均より高いのは確かだ。そして中性的な顔立ち。ちゃんと見れば女の子なのだが、鋭い目付きのせいか男の子と錯覚させてしまう。もう少しやわらかさがあれば一瞬迷ってもすぐに女の子だとわかるだろうに。
おまけに相変わらずローブの留め具を上から下まで締めているせいで、見えているのはブーツの足元だけというのが、性別不明に拍車をかけていた。
その視線に気付いたが怪訝そうに振り返る。
「……何? 何かついてる?」
見た目のあいまいさを決定付けるのは声かもしれない。
目を閉じて声だけ聞けば声変わり前の少年のものに聞こえてしまう。
きっと、が女の子以外には見えないと言われるのは、もっと成長してからなのだろう。
「私ねぇ、思うんだけど……」
席に着き、ボトルからオレンジジュースをゴブレットに注ぎながら、リリーはゆっくりと話し出す。まだ確信に至っていないことを口に出していいものか悩んでいた。
リリーから受け取ったボトルの中身を同じくゴブレットに注ぎつつ、は続きを待つ。
オレンジジュースを一口飲むと、ようやく決心がついたのかリリーは考えを口にした。
「アデルは、もしかしたらあなたのことを男の子だと思ってるんじゃないかしら」
瞬間、は飲みかけのジュースをヘンなところへ入れてしまい、激しく咳き込んだ。
「ちょっと大丈夫?」
「ゲホゲホッ……ちょ、今……何、何だって?」
「だから、そんな顔してたから、ね」
「ね……って。そんなわけないよ、何言ってんの!?」
「うーん、でもね。あなたと初対面の人の半分はあなたを男の子だと言うと思うの」
「言わないって!」
「でもアデルの顔って、近所の男の子に好意を持った妹にそっくりなんだもの」
引かないリリーに、はベーコンを刻むことで気持ちを落ち着かせ、考えを巡らせた。
ここで「見える」「見えない」を繰り返しても無意味だ。
「けどさ、それって憶測でしょ。かといって、わざわざ性別告げに行くのも変だよねぇ」
「そうね。私の考えが外れていたらとても失礼だし」
「決定的なことが起こるまで放っておくしかないかな」
「ローブの留め具を外したら?」
「ん……それはちょっと」
「どうして? もう慣れたと思ったんだけど」
1年生の時、は自分のスカート姿が恥ずかしいと言ってローブの留め具を上から下まできっちり締めていたのだ。下から覗くのはブーツのつま先だけ。
中性的な容姿のおかげでは性別不明の生徒になっていたのだ。
しかしそれも1年間も続けば嫌でも慣れるはず。なのには終了式までそのスタイルを崩すことはなかった。
それはの体質に由来することなのだが、そのことをまだリリーは知らない。
しばらく悩んだ後、はこう答えてごまかすことにした。
「目と同じでね。あんまり太陽の光に強くないんだ。肌、弱いの」
「そうだったの? 何だか意外だわ」
「実はか弱いんだよ。だから、夏休みに会った時も長袖に長ズボンだったでしょ」
言われて思い出したリリーは、そういえば、と頷く。
どうやら納得してくれそうな友人に、は気付かれないようにホッと息をつく。
実際、嘘は言っていない。原因を話していないだけだ。
そこからの思考はアデルのことに移った。
「アデルのこと……リリーの考えの通りだったら、きっと傷つけちゃうね。自然に気付いてくれるといいんだけど」
言いながらもは、おそらく自分で告げることになるんだろうなと、確信めいたことを思っていた。
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