約30m先。
青いネクタイを締めた少女の双眸がスッと細められ、表情が引き締まる。
存在を主張し始める心臓。
足を止めた少女は、腰を落として両足を踏ん張ると、次の瞬間目標に向かって一直線にスタートを切った。
フィルチに追われてでもいないかぎり聞くことのない足音に、うるさそうに振り返る少年。
刹那、両肩を掴まれ壁に押し付けられる。衝撃に一瞬顔をしかめた。
ギリギリと肩を押してくる力は女の子とは思えないほど尋常ではない強さだ。
自分かあるいは自分の家に恨みでも持つ者か、と少年は警戒し腕を振りほどこうとした。
その時、少女の口から呟きがもれる。
うつむいているため表情はわからない。
少年が肩を掴む少女の腕をといた、と思ったら今度は胸元を締め上げられた。
目にも止まらぬ動き。
まさか学校で、ダンブルドアのいるこのホグワーツで殺人を犯すことなどないだろうが、少年はそれ相応のことが身に降りかかる覚悟をした。
せめて顔くらい見ておきたいものだが、相手の少女はずっと下を向いたままだ。
少女の口が再び言葉を紡ぐが、やはり小さすぎて少年には聞き取れない。
「何を、言って……?」
苦しい中、何とかそれだけ口にすると、今度はビックリするくらいの大声で少女は言った。
「あなたを愛してます! 私とお付き合いしてくれませんか!?」
胸倉を掴まれ首が締まりかかっているせいではない、それとは違う種類の眩暈が少年を襲った。
──愛って、物理的にも苦しいんだね。
そんな遠い気持ちになりかけたのを無理矢理引き戻し、自分の息の根を止めようとする少女の手首を掴み、命の危機を訴える。
「とりあえず……手を、離して。苦しいから……」
どうやら少女は言われて初めて自分がやらかしていることに気づいたようだ。
ハッとして顔を上げて手を離す。
少年は咳き込みながらも必死に酸素を吸い込み、息を整えていく。
「ごめんなさい、すみませんっ、ああもうっ」
謝り、自分に苛立ち、少年の背をさする少女。
ようやく元に戻った少年は、再び下を向いてひたすら謝っている少女をやや呆れた目で見下ろしていた。
殺意を向けられていたわけではないことはわかったが、何となくこのまま会話をするのは癪だ。さて、どうしてくれようか。
一方少女は、これは完璧に嫌われた、と次に来るであろう非難の言葉を罰として受けるべく、じっと待っている。
やがて、軽い咳払いの後に少年の判決が下る。
「まず、僕はあなたとあの世にお付き合いする気はありません。行くなら一人で行ってください」
少年の声は冷たい。
穴があったら入りたい、と少女はひたすら恥じ入る。
が、次の瞬間、思いも寄らない言葉が降ってきた。
「でも、その前に夕食くらいなら付き合ってあげましょう」
「……え?」
「好きです、と言われたことは何回かあるけど、いきなり愛してますと言われたのは初めてだから。まさか壁に叩きつけて首を締めるだけがあなたの愛だなんて言わないでしょう?」
おそるおそる顔を上げる少女。
予想外の展開に対する驚きでいっぱいの表情。
一方少年は、不思議な好奇心をこめた目で少女を見ていた。
これが、・とレギュラス・ブラックの出会いだった。
そしての人生最大のミスを犯した瞬間でもあった。
あんな出会いだったにも関わらず、レギュラスはの告白にOKを出した。
スリザリンの席では居づらいだろうから、と気を遣ったレギュラスとレイブンクローの席で夕食をとっていた時のことだった。
本来なら喜び、舞い上がり、周囲がうっとうしがるくらい幸せオーラを発するはずなのだが、は非常に複雑な気持ちでいた。
というのも、あの告白劇の最後の最後でやっと相手の顔を見ることができたの目に入った人物は、人違いだったからだ。
致命的なミスもいいところである。
どこの世界に告白の相手を間違うバカがいるものか。
食事中、は一人で気まずかった。何を食べたかなんてまるで覚えていない。
ただ、レギュラスの言葉だけは覚えていた。
「僕はキミのことを名前くらいしか知らないから、いきなり付き合うことはできない。だから、少しずつキミを理解していきたいんだけど、そういう付き合い方でもいいかな?」
とレギュラスは同学年だが、個人的な接点があったわけではない。
合同授業もあったが、寮の違いや性別の違い、何より『純血主義の家の子。本人も純血主義』という理由から特にお付き合いをしたい相手ではなかったのだ。
たまたま仲良くなったスリザリンの女子生徒などは、レギュラスを憧れの目で見ていたが、自身は純血主義のような過激な思想はあまり好きではなかったから、レギュラスのことにも目を向けたことはなかった。
「OKくれたのは……家が純血だから、かなぁ」
夜、ベッドの中で毛布を抱き枕替わりに悶々とする。
今日はとてもじゃないが眠れそうにない。
間違いでした、人違いでした、と何度も言い出そうとしたのだが、何故かできなかった。
恥ずかしかったから? 蔑みの目を向けられたくなかったから?
その通りだ、とは自覚し、落ち込んだ。
自分のために言い出せなかったのだ。
本当はあなたのことは好きでも何でもないんです、告白したかったのはあなたの兄のシリウスの方なんです、と言ったらレギュラスはどんな反応をするだろうか。
「よし、明日こそ言おう。間違っているのは私なんだから」
そう呟いて、は無理矢理眠るようにキュッと目を閉じた。
やはりよく眠れないまま、は朝を迎えた。
いつものように同室の2人と朝食へ出る。
はレギュラスへ真実を打ち明けることで頭がいっぱいで、友人2人の話などろくに聞いていなかった。
なのに彼女達が何も文句を言ってこなかったのは、よほどに鬼気迫るものがあったからだろう。
実際、どこか宙を睨んだ据わった目は怖い。
周囲の目などおかまいなしに、は頭の中で何度もシミュレーションする。
今度こそ怒られ軽蔑されるのは必至だ、と覚悟を決める。
休み時間は教室の移動だけで時間が潰れるので、実行は放課後しかない。
そして、決戦の放課後。
は目的の人物の後ろ姿を見つけた。
途中で足をつったりしないよう、念入りに屈伸してはいつかのようにスタートを切った。
「あのっ」
あなたを呼んでるんですよ、と相手にきちんと伝わるよう、はっきり発音してさらに腕も引く。
振り返ったその顔を見て──の膝からガクッと力が抜けた。
「おいおい、どうした?」
自分を気遣うその相手は……シリウス・ブラック。
どうしてこう肝心な時に相手を間違えるのか、とは泣きたい気持ちだ。
一方シリウスは、呼び止められて振り向いたとたんくず折れた女子に、どうしていいのかわからずうろたえていた。こんなことは初めてだ。
床に膝を着き、うなだれているの顔を覗き込むように、同じように膝を折るシリウス。
「具合でも悪いのか? 大丈夫か? 医務室に連れてってやろうか?」
ああ、こんな間抜けな私にどうしてそんなに優しいのか。彼の優しさが、今はとても痛かった。
あまりの自身の情けなさに本格的に涙がにじんでくる。
しかし、ここで泣いてはいけない、とグッとこらえる。
一度は萎えた膝に再度力を入れ、はゆっくり立ち上がった。こんな時でもシリウスが支えてくれていることにちょっぴり感動しながら。
そして、勇気を出して顔を上げ、人違いだったと謝罪する。
礼儀に厳しい家で育ったに、パニックになって走って逃げ出すことなどできなかったのだ。
「いや、気にするな。……あれ、お前は・か? レイブンクローの」
「そ、そうだけど……?」
はシリウスとまともに会話したことなどない。
首を傾げる彼女に、シリウスは口元を緩ませてかすかに微笑む。
「俺が一方的に知ってただけだ。それじゃ、今度は相手を間違うなよ」
軽く手を振り、シリウスは行ってしまった。
残されたは、シリウスの記憶に残るようなことをしただろうか、と疑問を抱えて立ち尽くしていた。
少し前までの気迫はどこかへ消え去り、とぼとぼと廊下を歩く。目的地はない。ただ歩いているだけだ。
歩きながら、ゆっくり状況を思い返していく。
そもそもの始まりはシリウスに想いを告げようとしたことだった。
彼は、誰が告白しても首を縦に振らないから、きっと自分もそうなるだろうと半ば諦めてはいた。もちろん、髪の毛一本ほどの希望がなかったわけではないが。たとえ断られたとしても、気持ちを知っていてほしかったのだ。
「何て身勝手な……」
もそうわかっているが、気持ちは一人で抱えるには大きすぎた。
そして、間違えてレギュラスに告白のセリフをぶつけてしまった。
思い返すだに恥ずかしい出来事だ。
しかもあの時、レギュラスを締め上げていた。ケンカじゃあるまいし。
その時のことを思い出したの足が止まる。ため息と共に体はゆっくり横に傾ぎ、壁に寄りかかる。
ふと、この壁に頭を打ち付ければあの恥ずかしい記憶は消えるだろうか、などと愚かな考えがよぎる。が忘れたところで事実は消えないというのに。
間違えて告白してしまったレギュラスは──真実を知らないとはいえ、に対してやさしかった。
「純血主義の家の人って、もっととりすましたような気位ばかり高い人かと思ってたな……」
純血家の子としての誇りばかりが目立つスリザリン寮の生徒達。レギュラスももちろんその中の一人だったが、会話して初めてわかることがこの短い間にたくさんあった。
それを思い出したの顔がわずかに歪む。
──自分はシリウスを好きなのではなかったか?
何だか気持ちが悪くなり、無意識に額をグリグリと壁に押し付けていると、最近耳に慣れてきた声がかけられた。
「……何、やってんの?」
戸惑い120%のその声の主は、言わずと知れたレギュラス。
ハッと顔を向けたは、自分がやっていたことに気づき頬が引きつるのを感じた。
何とかごまかせないかと思ったが、こうしっかり見られては無理だ。
「ええと……ちょっと考え事を……」
「悩み事なら僕でよければ聞くよ」
「ありがと。でも……う〜ん、もう少し自分で考えてみる」
アナタのことです、とは言えない。
だが、聞いてみたいことはあった。
「どうして、私のこと拒絶しなかったの? その……どちらかと言えばあなたと反対の思想の私なのに」
「ああ、そんなこと」
けっこう勇気を出して言ったのセリフは、あっさり流された。
レギュラスはやや呆れたような困ったような、複雑な苦笑を浮かべていた。
「思想が違うと言っても、真っ向から反対ってわけでもないだろ。それに……」
次にレギュラスが見せた薄い微笑みに、何故かの背筋が緊張した。
今まで見せていた、害のない笑顔ではない。鋭利な刃物のような笑み。
レギュラスは一歩に近づく。
反射のように一歩引く。とはいえ、すぐ後ろは壁だ。
はあっという間に追い詰められた。
顔の両脇に手を置かれ、移動がかなわなくなる。
緊張に唇を引き結ぶを、レギュラスはおもしろそうに見つめた。
「……ねぇ、告白してきたのをきっかけに、僕がキミをこっち側に引き込もうと思っている、なんて考えたことある? キミの家が味方になってくれたら、他にも影響される家がどれだけあるかな……」
「……」
にとって、考えたくない話だった。
やはり今、目の前の人との関係を切らなければ、と噛み締めた奥歯に力が入った時。
「なーんて、ね」
ガラリと雰囲気が一変した。雰囲気だけではない。レギュラスの笑顔の質も。
その変わりようについていけず、呆気にとられているを明るく笑い飛ばすレギュラス。
「そんなこと考えたけど実行する気は全然ないよ」
「か、考えることはしたんだ……」
「そりゃあね。でも、それじゃつまらないだろう?」
もはや、はレギュラスのことを全く理解できなくなっていた。いったい何を考えているのか。彼は本当はどういう人なのか。
「思想のことは抜きにした場合、あんな過激な告白してくる人に興味がわくのは当然だと思うよ」
人違いだった告白は、の描きもしない未来を呼び込んだのだった。
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