1.日常あふれるところ

4年生編第1話  ムーン・バスケット1号棟は、去年まで住んでいた2号棟と建物の造りは同じだった。
 夏休みに入り、新たな住処となった部屋では「つまらない」と独りごちる。
 去年までほとんど一緒にいた人がいないというのは、心にぽっかり穴が開いたような感覚をもたらした。
 破壊された2号棟と同じく、基本的にここの住人もお互い干渉せずだ。
 管理人も別人なのに性格は真似たようによく似ていた。
「あのブタチョビ。ハムにされてしまえ」
 思い出し、毒づく。
 1号棟の管理人は背は低く横に発育した中年男性で、鼻の下にヒトラーのようなチョビヒゲを生やしていた。髪は薄い。
 ローテンションでだらだらと数日を過ごしていた時だった。
 一羽のフクロウが部屋の窓枠に舞い降りてきた。
「……私? ジェームズかな」
 休暇の時はわりとまめに手紙をくれる。もっとも、その内容は夢でリリーが告白してくれたとか、反応に困るものばかりだったが。
 暑い中、配達に飛んできたフクロウに水と砕いたビスケットを与え、その間には手紙を開いた。
 リリーからだった。
「休み中、家に泊まりに来ないか……はぁ!? リリーの妹って魔法関係毛嫌いしてたんじゃないっけ?」
 思わず声に出てしまった疑問に、手紙の続きが答えていた。
 説得する、と。
 男前すぎる一文に、の口から乾いた笑いが漏れる。
 3年間和解できなかったくせに、はたして説得なんかできるか?
 というのがの正直なところだ。
 文章はまだ続いていた。
 リリーの頭の中では妹はすでに説得済みのようで、を招待する日時の話が展開されている。満月が過ぎてからだ。
 気遣いはありがたいが、妹は大丈夫なのかと心配になる
「気のせいかな。リリーとジェームズが重なって見えるよ……」
 とりあえず、きっとエヴァンズ宅を訪問することになるだろうから、しっかり準備を整えなくてはと考えを巡らし、は返事を書いて待っていてくれたフクロウに託した。

 夏休みが始まって一週間後、今年も働くことを許してくれたいつもの店で店番を始めたがこのことを店長に話すと、彼は笑って言った。
「それなら髪の色を変えていかなきゃな。キミのはちょっと目立つだろう。いい毛染め薬があるんだ。数日はもつよ」
 実も蓋もないと言えばそれまでな店長の言葉だが、は素直に頷いておいた。
 髪の色が白いのは過去の出来事によるものであり魔法界特有のものではないのだが、珍しいことには変わりないからだ。魔法を嫌うリリーの妹なら、できるかぎりありきたりの格好で行くほうが良いだろうと判断した。
「それにしても良いタイミングで持ってましたね」
「昔の友人が送ってくれたんだが、ワシはこの通り髪は全滅だからなぁ。ちょうど誰かに譲ろうと思ってたんだよ」
「そうでしたか」
「まったく。しばらく会わないといろいろ行き違いがでるね」
 カウンターにを待たせ、苦笑を漏らした店長は奥の部屋へ毛染め薬を取りにいった。


 どうにも新居に馴染めないままはとうとうリリーとの約束の日を迎えてしまった。
 この日までにあった出来事と言えば、ジェームズからの泊まりの誘いに、からかってやろうと、リリーのところに泊まるから今回は行けないと書いて返事を送ったら、次の日に吼えメールが来たことくらいだ。
 真っ赤な封筒を目にした瞬間、は手紙をフクロウからもぎ取り窓枠を飛び越えて庭に出た。そして封を開いて放り投げた直後、空気が振動するようなジェームズの怒声が響き渡ったのだった。
 この大声に後ろの建物から次々と住人が顔を出し、負けじと文句を張り上げていたがすべて掻き消されていた。恐ろしい声量である。
 両手で耳をふさぎ顔をしかめて、傍迷惑なこの手紙の口をどうやってふさいだものかと困り果てていると、目の前に赤が飛び込んできて手紙を黙らせた。
 寝起きでもつれた長い金髪に派手な赤いローブをひっかけ、ハイヒールの似合う足は吼えメールを憎々しげに踏みつけている。
 ヒールの下で、さっきまでジェームズの声で嫉妬と嘆きを喚き散らしていた口が無残にクチャクチャにされていた。口の端から煙が細く上がっているのが、いっそう哀れに見える。
 静かになったその場は、つまりいつもの状態に戻ったわけだが、今までの騒ぎが騒ぎだったので不自然な静けさに感じられた。
 ずるずると両手を耳から下ろしたは、目の前の女性にどんな言葉をかけたら良いのか悩んだ。
 礼を言うべきか、謝罪を言うべきか……。
 迷った末、まずは謝罪をしようと決めた。後ろからの視線も痛いからだ。
 あの、と言いかけた時、今までピクリとも動かなかった目の前の人がパッと振り向いた。
 ──めちゃくちゃ怒ってる!
 怒りマックスな双眸に、出掛かっていた謝罪の言葉は引っ込み、は気圧されて一歩引いてしまった。
「……ずいぶんと元気の良いお友達をお持ちで」
 感情を抑えに抑えた声は、爆発寸前の火山のようだ。
 の舌は呪いでもかけられたように動かない。
「今度ここに連れてらっしゃい。少し教育をしてあげるから」
「すいませんでしたァ!」
 ニタリとした凶悪な笑みには心底震え上がり、反射的にそう叫んで文字通り部屋に飛び込んだ。もちろん窓から。そしてピシャッと窓を閉め、カーテンも閉めてしまう。暑いなんて言っていられない。そうしないと、あの人が侵入してきて首と胴が泣き別れにされそうな気がしてならないからだ。
 ホッと息をついただったが、すぐにドアの鍵がかかっているか確かめに行ったのだった。
 まだ新しいそれを思い出し、は身震いした。
「忘れろ、忘れるんだ……ッ」
 ブツブツと自分に言い聞かせる。
 その効果あってか、心が落ち着いたところでは毛染め薬を手に取った。
 同じ品でもマグルのものは髪の毛に付けるが、魔法界の場合は服用する。
 もらった毛染め薬は5本セットだった。1本を抜いて卓上鏡を前に一気に飲み干す。鼻をツンとした匂いが突き抜けていった。
 すると、の真っ白な髪が根元から色づいていった。その様は少々不気味だったが、約10秒後には綺麗な茶色の髪に染まっていた。
「おおぅ……そういえば何色が聞いてなかったなぁ。店長、もとは茶色い髪だったのかな」
 ここに店長はいないので確認は取れないが、古い友人がこれを送ってきたのだからきっと茶色だったのだろうと思った。
 さらにこの色のおかげで瞳の色もそれほど違和感がなくなった。見慣れない自分に自身は多少落ち着かないが、これならどこにでもいそうな人に見えるだろう。
 髪のチェックが済むと、次に荷物の詰まった旅行鞄の中身をもう一度確認した。
 主に着替えとお金、細かい道具類だ。洗面用具とか。杖と宿題はここに置いていく。
 お金は昨日のうちにグリンゴッツで両替しておいた。去年のバイト代や学校からの学費の支給金での買い物を値切った分を全部。どれくらい使うかわからなかったからだ。
 それから、決して手放せない帽子とサングラスにリリーの家までの交通手段。最寄の駅で待ち合わせをすることになっている。
「忘れ物なし、と」
 自然と弾む胸を抑えて、は部屋を後にした。


 漏れ鍋を出てバスに乗り、地下鉄を乗り継ぎようやく電車から降りてプラットホームを出ると、一つしかない改札口の脇に見慣れた赤毛が見えた。
「リリー!」
 が声をかけると、リリーは改札を出る乗客の列の中に声の主を見つけ、一瞬顔を輝かせたがすぐに不審そうに眉を寄せた。
 その顔に苦笑する
 今の格好からではだとわからないだろうことに気づいたからだ。
 リリーは近づいてくる謎の人物に警戒している。
 は少し距離をとって立ち止まると、肩から鞄を下ろしてから帽子とサングラスを外した。髪の色は違うが瞳の色と顔立ちは変わっていないから、これでわかるはずだ。
 その通り、リリーは「あっ」と小さく声を上げると、に飛びついてきた。
「もう、全然わからなかった! どうしたの、その髪?」
「いい毛染め薬が手に入ったんだ。似合う?」
「とっても!」
「思いっ切り怪しんでたくせに、よく言うよ」
 意地悪く言ったにリリーはペロッと舌を出した。
 笑い合うと、はまた帽子を被りサングラスをかける。
「ここからバスなの。こっちよ」
 リリーの後についてバス停に向かう。
 ほどなくして到着したバスに乗り込み、一番後ろの座席に並んで座った。
 しばらくすると車窓の景色から人工的なものが消えていった。10分もすればなだらかな丘と緑と空だけになる。丘の向こうにふわふわと雲が浮いている景色はとてものどかで気持ちも緩んでいく。
にはもう少し曇っていたほうが良かったかな?」
「そんなことないよ。やっぱり晴れた日は気持ちいいし」
「それならいいんだけど」
 暑くなっても長袖でしかいられないをリリーは気遣ったのだろう。
 は安心させるように笑みを浮かべた。
「リリーこそ、そんなに肌出してると後でシミができちゃうかもよ」
「……表情と言ってることが正反対なんだけど」
「あ、ごめん。言うべきことと心の中の言葉が逆になっちゃった」
「ほんっと捻くれてる! その口、つねっていい? いいわよね?」
「ほぅつねってはふぅ〜っ」
 両頬を左右に引っ張られ、眉を情けなく下げたにリリーはおもしろそうに笑った。
 パチンと音がしそうな勢いで頬を解放したリリーを、頬をさすりながら恨めしそうに睨む
 こんなふうにじゃれ合っているうちにバスは降りるべき駅に着いたのだった。
 そこは閑静な住宅街だった。
 珍しそうにキョロキョロしているを呼び、街の奥へ歩いていくリリー。
 何軒もの家を通り過ぎた。家の前で車を洗っているおじさん、庭で犬と遊んでいる小さな子、花でいっぱいのきれいな庭、公園で鬼ごっこをしている子供達にベンチでおしゃべりをしている母親達。
 どこにでもある平和な日常だ。
 けれどにとっては初めて見るようなものばかりであり、また小さい頃から憧れているものたちでもあった。どんなに欲しがっても、手に入らなかった。
「ここよ」
 不意に聞こえた声にそちらを見ると、周りと同じように一軒の二階建ての家。
 きれいな雰囲気の家だとは思った。
 リリーの後をついて胸ほどの高さの鉄製の門を開けて入り、ドアまでの短い石畳を歩く。両脇は腰くらいまでの高さの、小さな葉のたくさんついた木が並んでいる。
 ドアに鍵はかかっていないようで、リリーは大きくドアを開いた。
「ただいまー!」
 玄関に一歩踏み込んだとたん、パンの焼ける良い香りがふわりと漂ってきた。それから、パタパタという軽い足音。
「リリー! もう来たの? ちょっと早い……」
 リビングに続くと思われるドアから小走りに出てきたのは、薄い金髪のちょっとすました感じの女の子だった。
 リリーの妹のペチュニアだろうとは思った。
 彼女はまっすぐにを見つめて目を丸くして固まっている。
 魔法の苦手な子だから、まずは丁寧に挨拶して良い印象を与えておこう、とがあらかじめ考えておいたセリフを口にしようとした時。
「ママー!」
 挨拶のあの字も言わせてもらえないうちに、ペチュニアは悲鳴じみた声をあげてキッチンにいるであろう母親のところへ駆けていってしまった。
 そして、さらに続いた言葉。
「リリーの友達って男の子よ! 私そんな話聞いてないわ! 嫌よ!」
 勘違いされた上に嫌だとまで言われ、は言葉もなくうなだれた。
 ドヨーンと重い空気を背負ったに、リリーは気の毒そうな目を向けて慰めの言葉を探す。
、大丈夫よ。今から誤解を……」
「私、まだ男の子に見えるんだ……もう14歳なのに……」
「え? そんなことは……ないから安心して!」
「間があいたね……いいよ、もう。こうなったらジェームズに協力して性別転換薬を作って新しい人生を」
「歩まなくていいからっ。ちょっとここで待ってて! ──ペチュニア、ペチュニア!」
 リリーはまだ何かまくし立てているペチュニアの勘違いを正すため、バタバタとリビングの向こうへ走っていったのだった。

 そして今、はエヴァンズ家のリビングでペチュニアと夫人を前に座っていた。
 テーブルには控え目なテーブルクロスがかかり、夫人がおやつに作ったスコーンとベリータルトがバスケットや皿に盛られ、4人分の紅茶が淹れられている。
 リリーが誤解を解いたことで騒ぎは落ち着き、夫人はにこやかにを迎え入れてくれた。
 しかしペチュニアはいまだに疑わしそうな目をに向けている。
 その視線に苦笑してティーカップを置く
「まだ疑わしい?」
「だって……」
 今のは帽子もサングラスもつけていないが、ショートヘアに中性的な顔立ちは慣れないと男なのか女なのかわからないことがある。
 は小さく唸って困ったように首筋を撫でた。
「私、父親に似てるからよく間違われるんだよね……よし、じゃあ後で部屋でちゃんと確認し……」
! ペチュニアに変なことしないでっ」
「なに、その誤解を招くような言い方っ。人を変態にみたいに」
 非難がましい目でを見て身を引く隣のリリーに、もすかさず言い返す。
 いきなり始まった2人の言い合いに夫人とペチュニアは唖然とした。
「いったいペチュニアに何をしようとしたの?」
「何って、私が女だってことをわかってもらおうと思って、直接見たほうが早いかなって」
「見せなくていいからっ。あなたちょっと会わない間に性格変わったんじゃないの?」
「変わってないよ。だってこのままだとペチュニアに男女だと思われたままだよ」
 嫌だよ、と訴えるにリリーはため息をついてペチュニアに目を向けた。
 もペチュニアを見た。
 2人に見つめられたペチュニアはうろたえ、助けを求めるように夫人を見上げた。
 夫人はクスッと笑うとペチュニアの頭を一撫でしてリリーとに目を向ける。
「まったく、2人は仲良しさんね。大丈夫よ、私にはちゃんと女の子に見えるから。でも……毎回間違われるのが嫌だったら、髪を伸ばしてみるのも手じゃないかしら。それだけで印象って変わるものよ」
「ああ、そうですね……でも私のこの色で伸ばすと、おばあさんというか気味悪いんじゃないかというか……イタッ。ちょっ、リリー?」
 話の途中でいきなり横からリリーに蹴られは顔をしかめたが、彼女はさらっと無視して少し大きな声で母親に言った。
は学校でスポーツをしているから、髪が長いと邪魔なの。ね?」
 頷いておかないと後でシメられそうな目で同意を求められ、反射的には頷いた。その途中で今は茶色の髪だったことを思い出す。
 は改めて「そうなんです」と力強く肯定したのだった。
 訝しげにリリーとを見る夫人とペチュニアだったが、ありがたいことに特に質問を重ねることもなく流してくれた。
 結局、そのお茶会でペチュニアがに打ち解けることはなかった。
 リリーの部屋に泊まることになったは、彼女に案内されて2階の部屋に向かう。2人の後を少し離れてペチュニアがついてきていた。気味の悪い魔法使いだからお近づきにはなりたくないが、でも気になって仕方がないといったところか。
 階段を上り切ったところでは振り向き、見張るような目のペチュニアに微笑みかけた。
 ペチュニアはビクッと肩を震わせて立ち止まると、ギュッと眉間にしわを寄せ口を一文字に引き結びを見上げる。
「一緒に部屋でお話しようよ。学校の話とか聞かせて」
「あ……あなたに話すことなんて何もないわっ!」
 ペチュニアは顔を真っ赤にして怒鳴ると、を突き飛ばすようにして追い越し、彼女の部屋に駆け込んでいってしまった。
 その声が聞こえていたのだろう。
 リリーの部屋にお邪魔したに、彼女はすぐに謝ってきた。
「気にしなくていいよ。苦手なものってどうしてもあるから」
 にとっての魔法省のように、ペチュニアにとって魔法使いというのはどうあっても生理的に受け入れがたいものなのだろう。
「ところでリリー。やっぱりペチュニアの説得はできてなかったんだね? 強行突破しちゃかわいそうだよ」
「ちゃんと話したわ。でも……そう、出会いが悪かったのよ。男の子と間違えられるから、また頑なになっちゃったんだわ」
「私が悪いかのような言い方……」
「──そうかも」
「ちょっとォ!?」
 淡々と頷くリリーに騒ぐ
 そりゃないよ、とわざとらしく嘆くに、リリーはたまらず笑い声をあげた。
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