去年の最後の出勤日に言われた通り、はこの夏休みもアルバイトとして通うことになった。
店まで送ってくれたウィリスと「また帰りに」と約束して店主と向かい合う。
この店は午後3時開店だ。去年は開店時間の少し前からの出勤だったが、今日は2時半に来るように言われた。話でもあるのだろうか。
事務室まで連れていかれるとはソファを勧められ、店主はテーブルを挟んだ向かい側に座り、杖を一振りして紅茶を出した。
さらにもう一振り。
テーブルの上に数部の日刊預言者新聞が現れる。
お互い紅茶を一口含んだ後、重々しい口調で店主が言った。
「すでに知っているかもしれないが、5月頃から行方不明者、変死者が増え始めた。闇の陣営が本格的に動き出したのだ」
はゆっくり頷く。彼女の住む、狼人間やヴァンパイアを監視のために住まわせているムーン・バスケットという名の施設のロビーで、放置されていた新聞を読んだ。ホグワーツ校でもたまに読んではいたが、行方不明者・変死者の数はまだ少なく、記事も隅のほうに載せられている程度だった。それが夏に入ってから急増したのだ。
「この店にも、いつもと違う意味でのいかがわしい輩がたまーに来るようになった」
いつものいかがわしい輩、とは主に押し売りや強盗である。そうではないいかがわしい輩ということは、つまり死喰い人だ。
は死喰い人のことは世間一般で言われている程度しか知らない。
ヴォルデモート卿の配下。
それだけだ。
見たことはない。
それが、この店に姿を見せるようになったと言う。
怖い、不安、よりもまず思ったのは、迷惑だ、だった。
純血主義やマグル抹殺には興味がない。
今の目下の興味はお金と知識である。
どんな思想を持とうが勝手だが邪魔をしないでほしい、というのが正直なところだった。
そんな呑気なことを思い渋い表情のを店主はどう受け取ったのか、幾分明るい調子で言った。
「ワシはあれらの活動に興味はないんでね。あれらに加担するつもりはないが……かといって敵対もできん。あれらがうちの商品を欲しいというなら、客として接しなければいけない」
「もし、味方になれと迫られたら?」
の質問に店主は困ったように眉毛を下げた。
「どうしようかね。ワシとて命は大事。だが、この店にも愛着はある。ふむ……キミはどうしたらいいと思う?」
逆に問い返されて、は戸惑った。
どうしたらいいだろう。もし、自分がそんな目にあったら。
是と言えば、立派な死喰い人だ。闇払いに捕まってアズカバンへ入れられるか、うまいことやって死喰い人として生き延びるか。
──楽しい未来とは言えない。
否と言えば、まずは勧誘に来た死喰い人と一戦。死ねばそこまで。勝てば追っ手。万が一の未来としてヴォルデモート卿直々に手を下してくるかもしれない。
──素敵な未来とは言えない。
何も言えなくなってしまったに、店主は同情するように頷いてみせた。
「そうだ、応じても拒否してもつらくなるだけだ。困った世の中になったものだな」
放っておいてもらえるのが一番いいのだ。それでも、周囲で誰かが殺されて嫌な思いをするのだが。
ため息をついた店主が、次に顔を上げた時、を強い瞳で見据えた。とても真剣な目だ。
思わず姿勢を正す。
「それでも、ここで働くかね?」
死喰い人が出入りし、闇払いに目をつけられるかもしれない。店主次第ではどちらかの襲撃を受けることもありうる──もっとも、この店主はそれほど短慮ではないが。
ここで働くか否か。
もし辞めれば、収入がなくなる。学生のうちならそれでもいいだろう。けれど、はその先を考えていた。自分が差別される側だということを、あの施設で嫌というほど身に染みて理解している。
──自分は、まともな就職はできない。
では、マグルの世界ならどうか。
学がなくても雇ってくれるところはあるだろう。期待はできないが。もちろん収入も期待できない。
どっちに行ったところで、ただ黙っているだけでは行き詰まる将来があるだけだ。
それなら、意地でも自活する手段を見つけなければならない。在学中にそれが確立できるならいい。でもそうできなかった時のために、少しでも貯金が欲しかった。
しかし、アルバイトを続けるとなればとても危険なことになるかもしれない。だって命は大事だ。死んでしまっては将来も何もない。
店主は、真剣に悩むを黙って見守っていた。
やがては顔を上げてはっきりと告げた。
「続けます」
店主が意志を確認するようにの瞳を覗き込み、は目をそらさずに受け止めた。
「──よろしい。では、今年もよろしく頼むよ。ただし条件がある」
「はい」
「去年同様必ずウィリスに送り迎えをしてもらうこと。一人で来たら即刻クビだ。いいね」
「はい」
「それと……万が一の時に身を守るために失神呪文と禁じられた呪文を習得してもらう」
「あ……え? 禁じられた……?」
禁じられた呪文が何なのかわからなかったわけではない。それを習得しろと言われたことに戸惑いを感じたのだ。
しかし店主は冗談を言っているふうではなかった。
「キミならできるだろう」
「あの、禁じられた呪文て覚えちゃっていいんですか?」
口にした後で、何て間抜けな質問なんだとは自分に呆れた。なので慌てて付け足す。
「だって、魔法省で厳しく禁止されているから禁じられた呪文なんでしょう? 私、魔法はあまり得意ではないですし……。それに、魔法力は人並みですよ」
「魔法が得意でないならできるまで練習あるのみ。それと、魔法の効果には確かに魔法力も関係あるが、一番は本人の意志の力だよ」
は再び沈黙した。きっと、これを飲まないとアルバイトの継続は許可されないのだろう。
闇の魔術におもしろい呪文がたくさんあることは、ホグワーツの図書館で読んで知っている。が、それを人に向けて使おうと思ったことはない。そんな必要はなかった。でも、そこから一歩出れば……。近い将来、ダイアゴン横丁でもこんな会話が繰り広げられるのだろうかとは暗い気持ちになった。
けれど、身を守るためだ。
最悪の場合は、相手を倒してでも生き残る。
には、まだまだやりたいことがたくさんある。
「……わかりました。やります」
低く答えたに、店主は黙って頷いた。
それから、の出勤時間は午後1時になった。開店までの2時間を魔法の特訓にあてるためだ。日数も増えて週5日だ。今は失神呪文の練習をしている。夏休み中、学生は魔法を使ってはいけないことになっているが、地下の部屋は特殊な魔法で守られているらしく、が魔法を使っても魔法省に察知されないようになっていた。わざわざ店主がそうしてくれたのかはわからない。それに、彼が言うには、
「大人がいるところで学生が魔法を使った場合、魔法省はどちらが魔法を使ったかまでは知ることができない」
のだそうだ。
店主の教え方はとても丁寧だった。シリウスのようにスパルタではなく、ジェームズのようにノリと勢いでもない。
がなかなか呪文を発動できずにいると、杖の握り方から発音、振り方、と基本中の基本から見てくれる。
リーマスみたいな教え方だとは思った。
おかげで、ようやく呪文の光線が出るようになった。
ある日、店主はに1冊の本を見せてくれた。
『これぞ究極の薬草図鑑〜あなたはまだ薬草の真の姿を知らない』と題されている。
「いい本だ。読んでみなさい」
「ありがとうございます」
ははじめ、店の仕事に役立つ本だと思っていた。この店はかなりの種類の薬草を扱う。表向きには売買を禁止されているものもだ。薬草以外にも商品はあるが、中心は薬草だ。
読み進めていくうち、はこの本の凄さに気づいた。
教科書は本当に基本を学ぶものなのだと思い知らされる。ホグワーツの図書館にもここまで詳しい図鑑はないかもしれない。
「これ……凄いっ、この本凄いよ!」
店番などそっちのけで、はカウンターで歓声を上げた。本の最後のほうには付録として、薬草のみを使う魔法薬の調合時間の短縮について書かれていた。その中には、学校の教科書に載っている魔法薬もあった。
興奮を我慢できなくなったは、椅子を蹴立てて奥の事務室のドアをノックもせずに開けてしまった。
「この本、素晴らしいです!」
とんだ失礼も店主は気にせず、そうだろう、と逆に満足げに何度も頷いてみせた。
「キミならそう言うと思っていたよ。貸し出しはできないが、店内でなら存分に読んでいいよ。もちろん、仕事はきちんとしてもらうけど」
「ありがとうございます! これで脱狼薬に近づけるかも!」
「──脱狼薬? あんなものを作ろうとしているのかね?」
「そうなんです。でも全然……どこから手をつけていいのかわからなくて。けど、この本ならヒントがもらえるかも」
「あんな幻想的な魔法薬をねぇ……。絵空事だと思うけどねぇ」
「それでも、あのレポートをもっと追求したいと思ったんです」
言い切るに店主はそれ以上何も言わず、やや呆れたようながんばれよと言う視線を送った。
店主が脱狼薬のことをどう思おうがにはどうでもよかった。
カウンターに戻ると、は一応入口に気を配りながら本を読みふけったのだった。
その本は厚さはそれほどでもないのだが、内容が濃いので一つの薬草について充分理解するのにけっこう時間がかかった。それ故、一日で読み終わることはなく、は何日もかけてゆっくりと読み進めた。時には前のページに戻ったりして。
一週間ほど過ぎただろうか。その頃にはさすがに読み終わっていて、次には重要だと思われる箇所を羊皮紙に丁寧に書き写していく作業を始めていた。
時折ドアを見ながら羽根ペンを動かしていると、カランとベルが鳴り来客を告げた。
顔を上げたが「いらっしゃいませ」と愛想笑いと共に言おうと口を開きかけたが、結局その挨拶は出てこなかった。
代わりに、は勢いよく立ち上がり、客の名前を叫んだ。
「セブルス・スネイプ君!」
いきなりフルネームで呼ばれたスネイプは、ギョッとして一歩引いたがすぐに不機嫌そうに眉を寄せた。
が、は早く来いと両手で忙しく手招きをするばかり。
いったい何事かと訝りながらカウンターへ近づいた不機嫌な友人の鼻先へ、は究極の薬草図鑑を突き出した。
「な、何だこれは」
「凄い薬草図鑑! まあ、見てよ」
ウキウキと図鑑をカウンターへ下ろし、広げる。
スネイプもその勢いにつられて、自分の用件も忘れて図鑑を覗き込んだ。
だんだんとスネイプの表情が変わっていくのに、はとても満足だった。
この本のことを誰かに話したくて仕方がなかったのだ。けれど、相手がいなかった。ウィリスに話したところでさっぱり通じないし、リリーに話すわけにはいかない。ヘンなところを突っ込まれる可能性があるからだ。
そこに現れたのがスネイプだった。魔法薬に詳しい彼なら関連する薬草にも詳しいし興味があると思ったのだ。
案の定、いつも青白い頬にわずかに朱が差している。
「この本……」
「あーうん、貸し出し禁止なんだって。これ店長のなんだ。だから私も……ほら」
スネイプの言いたいことを察したは、申し訳なさそうに言って、自分の書きかけの羊皮紙を見せた。
スネイプは「そうか……」とやや残念そうに呟いた。
それから彼は、本のタイトルと著者名をじっくり見て言った。
「他の本屋で探してみよう」
「そうだね。ところで注文に来たんじゃないの?」
ここでやっとスネイプは本来の目的を思い出したらしく、慌ててローブのポケットを探った。
「また自宅へ」
「おっけー」
スネイプからメモを受け取ったは、カウンターの引き出しから注文票を取り出し、項目欄を埋めていった。
それをじっと見ていたスネイプは、からかうように唇を歪めた。
「しっかりアルファベットを勉強したようだな」
過去の忌まわしい記憶を突付かれ、はムッと顔をしかめる。
「相変わらず字のきたないやつだ」
「うるさいよ。ほら、さっさと名前と住所を書け」
は注文票と羽根ペンを乱暴にスネイプに突き出した。もはや店員の態度ではない。
しかしスネイプはそんな態度も気にせず、さらに嫌味ったらしく言う。
「抜けているものも数も間違っていないようだ。ここの店主も最初はさぞ苦労したろうな」
「黙れスニベリー」
「ほお。そういうお前はボールドネスという噂だが」
さっきまで1冊の本を2人で絶賛する仲の良さだったのに、あっという間に険悪になっていた。
「誰が禿げ(ボールドネス)だ!」
カウンターを強く叩く。
「どこも禿げてないっての!」
「今の年齢で総白髪だから卒業頃には禿げだろうということだ」
「余計なお世話だ。誰、そんなこと言ったやつ。そいつの頭の毛根を抹殺してやる」
いきり立つに、スネイプは冷めた声で「さあな」と答えると、記入を終えた注文票を返した。
スネイプが帰ると、はまだ『禿げ』についてブツクサ言っていたが、やがて究極の薬草図鑑にのめり込んでいったのだった。
その日もはウィリスと一緒に店を出た。足早にノクターン横丁を抜ける。店はノクターン横丁の入口に近いところにあるので、ダイアゴン横丁へはたいして時間もかからず出ることができる。
いつものように『漏れ鍋』から暖炉飛行で帰ると、管理人室は無人だった。夕食にでも出ているのだろう。
管理人室を出てムーン・バスケット2号棟入口までの短い石畳を歩き、ロビーへ入ると何故か全員集合していた。一人、見知らぬ客人がいる。後ろ姿なので顔はわからないが、男性のようだ。
とウィリスがきょとんとしてその場を眺めていると、気づいたのか客人が振り向いた。
不気味な薄笑いを描いたような仮面をつけている。
横でウィリスが小さく息を飲んだのがわかったが、はその意味がわからなかった。
この奇妙な仮面の人はいったい?
けれど、この人物が危険であることは雰囲気からわかった。とても危険だ。
「おや、子供までいるとは。──ふむ、まさかホグワーツに?」
「あ……うん」
何がなんだかさっぱりわからないは、あいまいに頷いた。
すると、仮面の男はわざとらしいほど大げさに驚いてみせた。
「おやおや! ま、あのダンブルドアなら考えそうなことか」
その口調から、彼がダンブルドアを嫌っていることがうかがえた。
仮面の向こうのくぐもった声が、気持ちの悪い親しさのこもった声音で話す。
「今、ちょうどあなた達の将来についてお話をしていたのだよ。──このままここに閉じ込められているつもりか、とね。どう思う?」
彼はとウィリスに聞いた。
この時、やっとはこの男が何者なのかわかった。ウィリスが息を飲んだわけを。
これが死喰い人。
はロビーに集まっている住人達に目を向けた。
その顔はさまざまだった。
この男の言うことはもっともだと思うもの、否定的なもの、戸惑うもの……。
「あなたの名前は?」
不意に話しかけられ、はハッとして死喰い人に目を戻す。
同時にウィリスに強く腕を引かれ、彼の背後に回された。
死喰い人が仮面の奥でクッと笑い声をもらす。
「まだ子供だからかまうな……というわけか? まあいい。今日はこれで失礼しよう。挨拶に来ただけだからね。そのうちまた来る。いい返事を期待しているよ」
死喰い人は住人達をぐるりと見回すと、ゆったりした足取りで帰っていった。
彼がいなくなったとたん、は大きく息を吐いた。よほど緊張していたのだろう。肩や背中が張っている。
それから、ロビーでは今のことについて意見交換が行われた。ここの住人達は、子供だから学生だからとを外すことはなかった。それはそうだ。今後の生活がかかっているのだから。それに彼らは親でも親戚でもない。ましてやは自分で判断ができない幼児ではないのだ。世の中がどういうふうになっているのか、把握できるだけの年齢に達していると周りも本人も思っていた。
死喰い人についていくか否か。
もちろん、の答えは否だ。純血主義にも人殺しにも興味はないしやりたくない。
「死喰い人の思想って純血主義でしょ。彼らに協力したところで、その後は私達が迫害されるんじゃないの? 繰り返すだけだと思うんだけど」
誘いに乗り気なヴァンパイアの女性に聞いてみれば、彼女は「わかってる」と頷きながら言った。
「どっちにしろ住みにくい世界であっても、魔法省の世界よりはましかと思ったのよ」
そうだろうか。にはわからない。
「そのうちまた来るそうだから、それまでじっくり考えればいいだろう。明日、明後日に来るとは思えないからな」
ここのまとめ役とも言える壮年の狼人間の男性の言葉で、ひとまず解散となった。
は自室に行かず、ウィリスについていった。
「全員一致で答えを出す必要はないんだ。どうせ分かれる」
ベッドに腰掛けたウィリスは疲れたように言った。
もそれには同意見だ。結局、最後に決めるのは自分自身だ。たとえ家族であってもそれは変わらないだろう。
「ウィリスは?」
「興味ないね」
彼の即答にはホッとした。そして、前に店主と話したことを思い出した。
「拒否したら殺されるのかな……」
「さあ? すぐにどうこうはないと思うけど。やつらの勧誘はけっこうしつこいらしい。断って住居を変えてもどこからか探り当ててくるんだとか」
恐ろしい話だ。
は顔をしかめた。
すぐに殺さないのは、味方が一人でも多くほしいからだろう。きっとそれは魔法省も同じだ。
ウィリスは面倒臭そうな顔で頭をかくと、ベッドから立ち上がって浮かない表情で椅子に腰掛けているを見下ろした。
「夕飯食ってくか?」
「食ってく」
「遠慮して食えよ」
ウィリスがあまりにもいつもの調子で言うので、もつい笑みが浮かんだ。
ちょっとだけ勢いをつけて立ち上がる。
「手伝うよ」
と言えば、当たり前だ、と返ってくる。
死喰い人の「そのうち」が永久に来なければいいと思った。
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